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(選択を解除)(図書寮文庫)
本図に描かれた柿本人麻呂(人麿,生没年未詳)は持統・文武朝(690-707)に活躍した万葉集の主要歌人。古今和歌集仮名序で「歌の聖」と讃えられ,平安時代末期には歌道上達を願う人々の信仰の対象となった。粟田兼房(あわたのかねふさ)という人の夢に人麻呂が現れたので,その姿(直衣・指貫・烏帽子姿,右手に筆,左手に紙を持つ)を絵にして拝礼したところ歌が上手くなったという故事(人麿影供)による。影供に用いられる人麿像は,下図のようなものが典型例だが,ここでは葦手(平安末期頃から用いられた遊戯的な絵文字)書きの「柿本人丸」で姿を作っている。この葦手書きの人麿像も人々に好まれた。なお,人麻呂は平安時代中期から「人丸(ひとまる)」とも呼ばれていた。
本作品は第107代後陽成天皇(1571-1617)宸筆と伝えられる,伏見宮旧蔵のものである。好学の天皇のユーモラスな一面が見て取れる。
(図書寮文庫)
本図は「天神さま」として親しまれる菅原道真(845-903)の肖像画。左遷された道真が大宰府で失意の内に没した後,異変や災害が頻発したため,朝廷はこれを道真の怨霊の仕業と考え,名誉回復を図ることで鎮魂につとめた。永延元年(987)8月5日一条天皇は道真に「天満天神」の号を贈った。学問の神として広く信仰されたのは江戸時代以降,寺子屋の守り神として崇敬されたためと言われている。
その道真の肖像画には公家の装束である束帯姿のものと,中国風の法衣をまとったものがある。道真が神通力で唐に渡り,中国の高名な禅僧無準師範(ぶしゅんしはん)の弟子になったという「渡唐天神」伝説が室町時代に広まり,盛んに中国風の衣装の渡唐天神図が作られた。梅の枝を持つのは,道真が大宰府に流される時に詠んだ「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」による。本作品は室町期に描かれ,五摂家のひとつ九条家に所蔵されていたもの。
(図書寮文庫)
本図は百人一首の作者たち100人を描いた巻子本で江戸初期の作と考えられる。人名を記した小札が剥がれている箇所もあり,現在の百人一首の順序と肖像画の装束を比べると身分が合わず順序が異なると思われる部分もある。画像は絶世の美女と称された小野小町(生没年未詳)である。現在多く流通している歌がるたや著名な佐竹本三十六歌仙絵巻断簡など,小野小町は顔を見せていないものが多いが,本作品では顔を見せている。
なお百人一首の歌がるたはポルトガルから伝来したカードゲームから派生したもので,江戸時代初期に作られ始めたと言われている。日野家旧蔵。
(図書寮文庫)
剣豪として知られる宮本武蔵(1584?-1645)自筆と伝えられる肖像画。伝来は不明だが,明治期に皇室に献上されたものと考えられる。武蔵の伝記については不明な点が多いが,武道修行のため諸国をめぐり,のち二天一流(にてんいちりゅう)兵法の祖となった。巌流島での佐々木小次郎との決闘は著名。肥後藩に仕え兵法書『五輪書』(ごりんのしょ)を著している。本図はよく知られる二刀流の姿を描き,武蔵の独特の風貌を伝えている。
(図書寮文庫)
新井白石(1657-1725)は江戸時代中期の儒学者・政治家。久留里(現・千葉県君津市)藩士の子として,江戸に生まれる。名は君美(きんみ),白石は号。師である木下順庵の推挙で甲府藩主徳川綱豊に仕えた。綱豊が家宣と改名して6代将軍になると将軍侍講として活躍。7代家継の代にわたって7年あまりの間,幕政の改革にあたった(正徳の治)。白石の著作として自伝『折たく柴の記』や,日本に密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問した『西洋紀聞』などがある。
本図に見える威儀を正した白石の姿は,武士として,また儒者としての威厳を感じさせるものとなっており,新井家所蔵本の模写本ながら見事な出来栄えといえよう。有職故実で名高い松岡家旧蔵本のひとつ。
(図書寮文庫)
本図に描かれた有栖川宮熾仁親王(1835-95)は,幕末から明治にかけての皇族の一人で政治家・軍人でもあった。明治天皇の信頼も篤く,戊辰戦争において東征大総督をつとめ,以降,兵部卿,福岡藩知事,元老院議長,逆徒征討総督,陸軍大将を歴任し,博愛社(後の日本赤十字社)発足にも深く関わった。和宮親子内親王との婚約解消(和宮は徳川家茂に降嫁)の一件や「宮さん宮さん」(トコトンヤレ節)の「宮さん」として人々に知られている。
肖像画の作者威仁親王(1862-1913)は熾仁親王の弟にあたり,皇子女に恵まれなかった熾仁親王の後継者となった。明治12年(1879)にイギリス海軍「アイアン・デューク」に乗組み,約1年間艦上作業に従事,その後英国に留学。元帥海軍大将で生涯を終えられた。
熾仁親王は明治28年1月15日薨去,その前後に菊花章頸飾・功二級金鵄勲章を授与されているが,この肖像画はそれらを帯びた姿であるので,薨去後,追善のために威仁親王が筆をとったものと考えられる。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,安政5年(1858)12月11日,高杉晋作(1839-67)らが師の吉田松陰(1830-59)に宛てた血判状。連署の高杉晋作・久坂玄瑞ら5人は松陰の門下生で,本文執筆は久坂とされる。高杉らは師松陰の過激な計画を思い止めようと血判状をもって諫止したのである。師を思う弟子たちの思いが込められた血判状による諫止ではあったが,やがて松陰は安政の大獄によりその短い生涯を閉じるのである。木戸家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,薩摩藩士西郷吉之助(隆盛,1827-77)から木戸準一郞(孝允,1833-77)に宛てた書状で,閏4月6日とあるとことから慶応4年(明治元年,1868)のものと考えられる。東征大総督府参謀であった西郷が木戸に,徳川氏の処分や関東鎮撫策について面会して意見を聞こうと上京を促そうとしたのではないかと想像される内容をもっているが,木戸は10日に大阪を発ち,神戸へ向かったため,西郷は会うことはできなかったことがうかがえる。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代後期に摂政・関白を歴任した藤原忠通(1097-1164)の自筆書状である。内容は,忠通の側にいたと思しき,ある貴人の病気に関するもので,このとき平癒のための御占や御祈が盛んに行われたことがうかがえる。宛所(宛先)が欠けているが,忠通の息女聖子(1122-82)の可能性が考えられる。土御門家旧蔵。
(宮内公文書館)
写真は,明治7年(1874)に司法省七等出仕井上毅(こわし)が,司法卿大木喬任(たかとう)へあてた建白書の草稿。井上は,法制局長官などを歴任したほか初代宮内省図書頭も務めた。後に,伊藤博文とともに憲法の起草に当たった人物として著名。本建白書は,国家の基本となる「建国法」(憲法)制定の必要性などを説いたもの。井上の明治初期の憲法構想が本資料から読み取れる。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内卿・宮内大臣にあてられた建白書類をまとめたもので明治5年(1872)から明治41年まで全9冊の内の1冊。写真は,筑摩(ちくま)県・愛知県の農民が明治9年(1876)に宮内卿徳大寺実則(さねつね)へ宛てた建白書。歌会始での詠進歌を上梓・頒布したい旨を述べている。明治7年に一般からの詠進が認められ,歌会始という宮中行事が一般に知られるようになったことの一端がうかがえる。
(宮内公文書館)
本資料は,「諸願建白録」の内,明治24年(1891)分の簿冊。写真は,横浜の実業家である高島嘉右衛門(かえもん)が宮内大臣土方久元(ひさもと)に提出した建白書。祭政一致についての意見を述べた長文の建白書である。高島は,横浜港を埋め立て,鉄道敷設のために貢献したことで著名。埋め立て地には,「高島」の地名が付けられた。また,高島は『高島易断』の著者としても有名。
(宮内公文書館)
本資料は,三条実美の事蹟編集の過程で収集された資料の一つ。当時開拓次官であった黒田了介(清隆)が,明治天皇に言上したのち,改めて文書にして明治3年(1870)12月29日に右大臣岩倉具視(ともみ)へ提出した意見書。戊辰戦争で新政府軍に抗戦し,箱館五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚(たけあき)の処分などについて述べられている。箱館で新政府軍を指揮していた黒田は,敵将であった榎本の才覚を高く評価し,罪を赦してその能力を新しい時代に活かそうとしたとされる。
(宮内公文書館)
本資料には,明治4年(1871)9月に薩摩藩出身の伊地知正治(いじちまさはる)の名前で提出された建言書2通が綴じられている。一部に修正した痕跡があり,「本書は西郷隆盛自筆也」とあることから西郷隆盛が代筆した草案であると考えられる。祭政一致や勧農,租税などについての意見が記されている。
(宮内公文書館)
本資料は,明治2年(1869)8月26日に北沢正誠(まさなり)(乾堂(けんどう))が,木戸孝允に提出した建言書。北沢は,松代(まつしろ)藩の出身で佐久間象山に学び,廃藩後太政官に出仕した。本建言書では,同年7月に実施された版籍奉還後の国家のあり方について藩の体制,人材登用などの面で「旧習」を「御一新」するための構想が長文にわたって論じられている。本資料からは,地方の藩の一藩士が抱いていた国家構想がわかる。
(図書寮文庫)
第108代後水尾天皇(御在位1611-29)の御落飾後を描いた掛幅。尾形光琳(1658-1716)画。後水尾天皇は学問や和歌などの文芸にご関心が深く,江戸幕府との難しい関係の中,宮廷文化の復興に力を注がれた。
なお,光琳の落款を見ると,法橋(ほつきよう,本来は僧に授与する位だが仏師や絵師にも授けられた)とあり,光琳が法橋に叙せられた元禄14年(1701)以降の作品だとわかる。後水尾天皇は延宝8年(1680)に崩御されているので,制作年代に疑問があるようにみえる。しかし,貴人の肖像画は,原画に拠って描かれることが多く,ここでも公家が描いた下絵をもとに,描かれたものだと思われる。
(図書寮文庫)
これは,慶応2年(1866)正月23日に木戸孝允より坂本龍馬(1836-67)に宛てられ,2月5日,裏に龍馬自筆で薩長同盟の裏書をし,木戸に送り返された書簡。表は薩長同盟の6か条を記した木戸の書簡で,龍馬がその求めに応じ,6か条に誤りがないことを保証するため朱墨で裏書をした。薩長同盟の内容はこの書簡によって明らかとなる。画像は龍馬による裏書部分。
(図書寮文庫)
これは,初代内閣総理大臣となった伊藤博文(1841-1909)の明治9年(1876)12月5日付木戸宛の書簡。冒頭に「華族バンク」とあり,華族の出資で設立され,「華族銀行」とも称された第十五国立銀行関係のものと分かる。同行は,明治10年5月21日に開業し,木戸はその5日後に亡くなった。同行は大正2年(1913)に宮内省本金庫事務取扱(宮内省の指定銀行)になった。
(図書寮文庫)
これは,奇兵隊などで著名な長州藩士・高杉晋作(1839-67)の慶応2年(1866)2月20日付木戸宛の書簡。本文中に「英人,薩士と会和の事」という文言があり,いわゆる「薩英戦争」(1863)後の両当事者の歩み寄りについて書かれたものである。なお,この前後にも同様の文言の見える書簡が並ぶところから,長州藩内でも英国と薩摩藩との動静に並々ならぬ関心があったことが窺える。