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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治11年(1878)7月5日,明治天皇が英照皇太后とともに,青山御所に新設された能舞台で演能をご覧になる場面が描かれている。古典芸能のなかでも能楽(能・狂言)は,明治維新を経て衰退の一途をたどっていた。そこで能楽の再興に尽くされたのが,能楽鑑賞に親しまれた英照皇太后であった。英照皇太后は昭憲皇太后とともに,青山御所能舞台と芝公園能楽堂で度々能楽を御覧になるなど,能楽の振興に寄与された。
本資料は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇に奉呈された附図の稿本2巻の内の一つである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)で,「明治天皇紀」に所載される主な場面が描かれている。
(宮内公文書館)
ロシア太公キリル・ウラジミロウィチが来日した際の集合写真である。有栖川宮威仁親王,伏見宮貞愛親王,閑院宮載仁親王の皇族方のほかに,内閣総理大臣大隈重信,内務大臣板垣退助,元帥山縣有朋ら政治家も映っている。明治31年(1898)7月10日,宿泊先として滞在した芝離宮で撮影された。皇室による外国人貴賓の接待では,当初浜離宮延遼館が主に用いられたが,やがて老朽化のため取り壊されると,それに代わって用いられたのが芝離宮であった。
本写真を収める「外賓接待写真帳」には,接待の場となった芝離宮で撮影された外国人貴賓との集合写真が数多く収録されている。明治12年(1879)から大正15年(1926)までの全3冊で,写真自体は,明治14年(1881)以降外国人貴賓の接待事務を主管する宮内省の担当部局(式部寮・外事課・式部職等と変遷)で保有されてきた。昭和29年(1954)になって写真帳として仕立てられた。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月19日,明治天皇・昭憲皇太后が赤坂離宮で行われた観菊会へ行幸啓になった際を描いたものである。明治天皇は毎年の陸軍大演習の統監により,久しく観菊会へ臨席されていなかったが,この年は秋の観菊会に臨まれ菊花をご覧になった。秋の観菊会は,戦前に現在の園遊会と同様の行事として,春の観桜会とともに行われていた。欧州の園遊会にならい,内外の要人を招待する皇室行事で,それぞれ桜と菊の観賞を目的とした社交の場として催されていた。明治13年(1880)に始まった観菊会は,昭和4年(1929)に会場を新宿御苑に変更するまで,赤坂離宮で行われていた。
本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇へ奉呈された附図の稿本に収められたものである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(図書寮文庫)
明治期の礼法研究家松岡止波(まつおかとわ,止波子)が作ったとされる,色紐・色紙(いろひも・いろがみ)で結方と折形の雛形を作り貼付した見本帳。組紐や熨斗袋に残る日本のラッピングのかたちである。
松岡家は,江戸後期の松岡辰方(ときかた,1764-1840)以降,公家・武家の礼法や有職故実(ゆうそくこじつ)を家業とした。松岡家旧蔵本の中には『結方口伝(むすびかたくでん)』(209・1782,江戸末期写)など,これに対応する口伝書がある。本書は市販のノート(附属資料として保管)に貼られていたが,現在は当部修補係によって厚みのある冊子に仕立てられ保管されている。
なお,結方と折形の名前に「真…」「草…」とあるのは「真行草」(書道・華道・茶道などに用いられる表現法の三態)による。結方78点,折形139点。
(図書寮文庫)
彦根城(滋賀県彦根市)は,徳川家康の重臣井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の合戦の戦功として佐和山城(同市内,石田三成の旧居城)を拝領したのち,その息子直勝(なおかつ)が彦根山に移転して築城を開始し,その弟直孝(なおたか)の代に完成した城郭である。琵琶湖に臨んで水運に長じたほか,中山道にも近く,西日本への抑えとなったといわれている。大老など江戸幕府の重職を担った井伊家の居城として幕末まで続き,現在は現存の天守が国宝に指定されている。
掲出の写真は,城北東の大洞(同市内)から松原内湖(戦中・戦後の干拓により消滅した琵琶湖の入り江)をはさんで彦根城の本丸を望んだもの。中央に天守の上層階が見えるほか,右端に西の丸三重櫓,左端にやや下がって天秤櫓が見える。かつての彦根城の姿をとどめた貴重な写真といえるだろう。撮影年代は定かでないが,他の写真のキャプションに記された施設名などから明治30~40年代に編まれたアルバムと推定される。
(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(宮内公文書館)
本資料は,青山練兵場(現在の明治神宮外苑)内に生えていたヒトツバタゴ(俗称ナンヂャモンヂャ)の写真で,明治41年(1908)4月,東京帝国大学農科大学教授であった白井光太郎氏より明治天皇へ奉呈されたものである。江戸時代以来,同地に生えていたヒトツバタゴは,長くその名称がわからず,「ナンヂャモンヂャ」と呼ばれていた。
ヒトツバタゴの自生する一帯は,明治19年(1886)に青山練兵場とされるが,同木は保存され,さらに大正13年(1924)に天然記念物にも指定されている。しかし,昭和8年(1933)に老木ということもあり枯れてしまう。現在,聖徳記念絵画館の前に残されている木は,白井氏が接ぎ木した2代目であるという。また,写真の背景には,近衛兵や軍馬,建物なども写り込み,当時の青山練兵場の様子をよく伝えている。
明治天皇には,全国からこうした写真や報告書など多くの文書が奉呈されており,それらは「明治天皇御手許書類」として,宮内公文書館に所蔵されている。当館では,これら資料のデジタル化を進め,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムにて,順次公開している。併せて御参照いただきたい。
(宮内公文書館)
本資料は,明治6年(1873)7月に旧紀州藩主の徳川茂承(とくがわもちつぐ)へ二万円が下賜された際の記録である。本資料を含む「恩賜録」には,明治以降,皇室からの賜金・賜物の記録が収められている。
明治6年(1873)5月5日,それまで明治天皇と皇后(昭憲皇太后)のお住まいや宮内省が置かれていた皇城(旧江戸城西の丸)は全焼し,新たに赤坂離宮が仮皇居として定められた。赤坂離宮は,もとは紀州藩徳川家の屋敷であった。それを明治5年(1872)3月に徳川家が宮内省へ献上し,東京へ行啓した英照皇太后のお住まいとされていた。しかし,仮皇居に定められたことによって明治天皇,皇后(昭憲皇太后),英照皇太后のお三方が住まうことになり,「手狭」となっていた。そうしたところ,明治6年(1873)7月新たに赤坂離宮に地続きの地所(後の青山御所に当たる地所)が徳川家から献上された。そして仮皇居へは明治天皇と皇后(昭憲皇太后)が,青山御所へは英照皇太后がそれぞれお住まいになることとなった。
本資料は明治6年(1873)7月の献上に対する下賜金を示したものである。さらに,その賜金は炎上後,各地からの献金によって賄われたことがうかがえる。なお,この「恩賜録」をはじめ,宮内公文書館の所蔵資料は順次目次情報を公開している。併せて御参照いただきたい。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(図書寮文庫)
明治30年代の岡山市の市街地を写した写真。左に写る高層の建物は,現在の北区天神町にあった亜公園(あこうえん)の集成閣。後楽園に亜(つ)ぐ公園として名付けられた亜公園は,明治25年(1892)に開園したテーマパークで,集成閣を中心に娯楽施設や商店が並んで賑わったという。写真の奥(南)には,工場の煙突や煙りも写っている。
同じ写真帖には,後楽園や津山城(鶴山城)址などの県内の名所のほか,第六高等学校(明治33年開校)や県立女子師範学校(同35年開校)など教育機関の写真も収められている。そのうち江戸時代に設立した閑谷学校(しずたにがっこう:現在の岡山県備前市に所在)は「私立閑谷中学校」と題されており、その名称が使われていた明治36~37年頃にこのアルバム『岡山県名勝写真』が編まれたことがわかる。
明治・大正期には,地方の実情を伝えるものとしてこうしたアルバムが各地で数多く作られ,皇室に献上された。
(宮内公文書館)
本資料は,足立正声(あだち まさな)の伝記である。宮内庁書陵部陵墓課の前身である諸陵寮(しょりょうりょう)や書陵部図書課の前身である図書寮の長にあたる諸陵頭・図書頭などを歴任した。昭和3年(1928),臨時宮内省御用掛の外崎覚によって謄写されたもので,巻末には外崎の自筆で,「足立諸陵頭ハ在職中薨去相成候のみならす本寮(諸陵寮)とハ深き因縁ありし方なれハ其略伝を謄写」したとあり,資料が作成された背景がうかがえる。
足立正声は,鳥取藩出身で,明治元年(1868),明治政府に出仕し,内務少書記官などを務めた。明治11年(1878)2月,陵墓事務が内務省から宮内省へ移ると,足立は宮内少書記官に任じられた(資料写真中の赤線部分)。その後,足立は陵墓事務をつかさどる諸陵寮の復興を建言するなど,陵墓事務の整備に努め,明治19年(1886)の宮内省官制により,改めて諸陵寮が設けられると,諸陵助(しょりょうのすけ)に任じられている。様々な職務を兼任しながら,明治26年(1893)には諸陵頭に任じられた。その後,諸陵頭の任免は繰り返され,明治40年(1907)4月,諸陵頭に在職中のまま死去している。没後には,在官中陵墓に関して貢献する所が多かったことから褒賞を受け,金一万円が下賜されている。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内省内に諸陵寮(しょりょうりょう)再興を求めた意見書の写しである。明治16年(1883)1月,宮内省御陵墓掛足立正声(あだち まさな)が宮内卿徳大寺実則(とくだいじ さねつね)へ提出したもので,古代の律令制において存在した諸陵寮を復活させようというものであった。
本資料自体は写本で,足立男爵家蔵本から写されたものである。大正12年(1923)の関東大震災により,陵墓関係の公文書のほとんどが失われたため,震災後に作成された貴重な資料である。
元治元年(1864),陵墓管理のため古代の律令制度にならい諸陵寮が再興されたが,維新後は神祇官(じんぎかん),教部省(きょうぶしょう),内務省などの所管官庁を変遷し,明治11年(1878)になって宮内省が陵墓事務を担当した。その後,宮内省内の御陵墓掛に就いた足立は,本資料の意見書を提出し,古代の諸陵寮の名称を再興しようとし,明治19年(1886)2月,宮内省に諸陵寮が設置された。以後,終戦直後まで陵墓の管理・考証・治定に関する事務は,概ね諸陵寮が担った。戦後,諸陵寮は廃止されたが,その事務はいくつかの変遷を経て,宮内庁書陵部陵墓課に引き継がれ,現在に至る。
(図書寮文庫)
フランスのオルトラン(Théodore Ortolan,1808-74)が著した"Règles internationales et diplomatie de la mer"(海の国際法と外交)のオランダ語訳。榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)旧蔵本。
榎本武揚(通称釜次郎)は文久2年(1862)オランダに留学し慶応2年(1866)に帰国,幕府海軍副総裁となる。大政奉還後,新政府への軍艦引渡を拒み五稜郭(現在の北海道函館市)に籠もって抵抗したが(箱館戦争),明治2年(1869)5月降伏。入獄,特赦の後,明治政府に仕え,海軍卿・文部大臣・外務大臣などを歴任した。
本書は,冒頭に師フレデリックスから榎本に宛てた序文(印刷)があり,以降の本文はペンで浄書されている。欄外に榎本のオランダ語・日本語の注記がある。
榎本は降伏の際,本書が混乱で失われるのを惜しみ,官軍参謀の黒田清隆(1840-1900)に託した。掲出した"Geschenk aan de Admiraal van de Keizerlijk Japansche marine van Enomotto Kamadiro"「提督への贈り物」と筆で書かれた一文はこの時のものとされる。
明治13年海軍卿となった榎本は海軍省図書のうちに本書を見出し,許可を得て手元に戻した。その後,武揚の孫である榎本武英から大正15年(1926)に宮内省へ献納された。武英は,本文は「ふれでりつくす氏ノ手筆ニ係ル」とし,祖父の書き込みを「蝿頭ノ細字」(ようとうのさいじ)と評している(宮内公文書館蔵『図書録』大正15年第62号〈識別番号990292〉)。
(宮内公文書館)
この図面は,皇居御造営事務局が明治25年(1892)に初期の宮内省庁舎を描いたものである。近代の宮内省は,明治2年(1869)7月8日の職員令によって設置された。平成31年(2019)は近代宮内省の誕生から150年にあたる。
発足当初の宮内省の職掌は宮中の庶務であり,庁舎は太政官や天皇の住まいと共に皇城(こうじょう)(旧江戸城西の丸)内に置かれていた。明治6年(1873)5月に皇城が焼失し,明治天皇が即日仮皇居と定められた赤坂離宮へ移徙(いし)すると,宮内省も仮皇居内へ移動している。皇室との距離の近さは,宮内省の職掌をよく表しているといえるだろう。
その後,新たに明治宮殿が造営されるなか,宮内省庁舎は紅葉山下に建設されることが決定する。宮内省は,たび重なる官制の改正により所掌事務が増大し,組織も拡大していた。明治21年(1888)の庁舎落成によって,宮内省は初めて天皇の住まいから独立したものとなったのである。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
本図は,新宿御料地(現在の新宿御苑)の総図で,明治20年(1887)から同24年頃に作成されたと推定される。図面左が北の方角で,左下の方向に現在の新宿駅がある。建物や田畑等の位置が示されておらず,御料地内の詳しい様子は分からないが,現在の新宿御苑とは異なる区画がうかがえる点で貴重な一枚である。図面中央下の特徴的な池が,鴨猟の行われる鴨場である。鴨場は明治13年12月から翌年6月にかけて新たに整備された施設で,明治35年に廃されるまで,皇室の狩猟場としての役割を担っていた。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月5日,枢密院議長の伊藤博文は大日本帝国憲法の清書(原本)3通を作成した。そのうち1通は枢密院にて保管され,残りの2通は伊藤から明治天皇へ上奏された。上奏された2通のうち,一方は「帝室の宝庫」に保管され,もう一方は内閣に下付された。現在,前者は宮内公文書館が,後者は国立公文書館がそれぞれ保管している。
宮内公文書館が所蔵する原本は,憲法宣布詔書,皇室典範,同増補と共に菊紋付きの漆箱に収められ,保管されている。大日本帝国憲法は,7章76条からなり,冒頭の御名御璽に続き,内閣総理大臣黒田清隆以下国務大臣の署名がある。統治権の総攬(そうらん)や文武官の任免など天皇大権についても規定されていた。大日本帝国憲法は,昭和22年(1947)に日本国憲法が施行されるまで適用され,戦前の日本のあり方が定められた。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月11日,憲法発布式が午前10時40分から宮中の正殿において催された。式典には,内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)や枢密院議長伊藤博文(いとうひろぶみ)をはじめ,皇族や元老,閣僚,陸海軍将官,地方長官,高級官僚,各国公使以下の外国人らが出席している。明治天皇は内大臣の三条実美から憲法の入った筥(はこ)を受け取った後,勅語を述べられ,憲法を黒田に授けられた。式典後,天皇は青山練兵場へ行幸し観兵式(かんぺいしき)に臨まれ,午後7時からは豊明殿(ほうめいでん)ほかで宴会が催された。
絵画は,薩摩藩出身で司法省検事の床次正精(とこなみまさよし)が描いた記録絵画のうちの1枚である。絵画は8枚組であり,観兵式臨幸之図(かんぺいしきりんこうのず)や豊明殿御陪食之図(ほうめいでんごばいしょくのず)などが含まれ,発布式当日に行われた一連の行事の様子が伝わる。