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(選択を解除)(図書寮文庫)
本書は,中国南宋の陳実(ちんじつ,12世紀頃の人)が,仏教経典の集大成である大蔵経から,事項を抜粋・分類した索引・内容一覧的な仏教書である。
徳川家康が慶長20年(1615)に隠居所駿府(静岡)で出版を命じた「駿河版」(するがばん)と呼ばれる金属活字で印刷した図書のひとつ。家康を深く尊崇する徳川吉宗は,幕府の図書館である紅葉山文庫に,家康の出版物が欠けていたため,元文5年(1740),当時和歌山藩に伝来していたこの大蔵一覧集を取り寄せ紅葉山文庫に収蔵したのである。
(図書寮文庫)
本書は,中国清王朝第4代皇帝聖祖(康熙帝)が,康熙28年(1689)琉球国中山王尚貞の朝貢(臣下としての礼をとること)に対する答礼の書の写。前半が漢文(右端より始まる),後半が満洲文字(左端より始まる)で書かれ,下賜品の目録なども載る。本書は細部まで丁寧に模写されており,江戸中期に琉球国から幕府に提出されたものという。正徳6年(1716)6月10日に吉宗が本書を閲覧した記録が残る。
(図書寮文庫)
第108代後水尾天皇(御在位1611-29)の御落飾後を描いた掛幅。尾形光琳(1658-1716)画。後水尾天皇は学問や和歌などの文芸にご関心が深く,江戸幕府との難しい関係の中,宮廷文化の復興に力を注がれた。
なお,光琳の落款を見ると,法橋(ほつきよう,本来は僧に授与する位だが仏師や絵師にも授けられた)とあり,光琳が法橋に叙せられた元禄14年(1701)以降の作品だとわかる。後水尾天皇は延宝8年(1680)に崩御されているので,制作年代に疑問があるようにみえる。しかし,貴人の肖像画は,原画に拠って描かれることが多く,ここでも公家が描いた下絵をもとに,描かれたものだと思われる。
(図書寮文庫)
天明8年(1789)正月30日,京都で発生した大火の影響で仮住まいを強いられていた後桜町天皇が,2年後に新造された仙洞御所に遷幸された際の行列の様子を描いた彩色の絵図。このときの遷幸に関しては文字資料として,当部所蔵の「院中評定日次案」(いんちゅうひょうじょうひなみあん,函架番号260-58)があって,公家にかかわる行列の詳細が記されているが,本資料には公家たちのほかに,その前後の町人や武家の姿も描かれている。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。
(図書寮文庫)
「蝦夷図」(えぞず)と「唐太島見分麁絵図」(からふととうけんぶんそえず)からなる江戸末期の写本。「蝦夷図」は現在の本州最北部から北海道を彩色画で描き,各地の名称や簡単な地誌等が書き込まれている。本州および北海道南部には,道や航路が示されて交流の様子がうかがえるが,「蝦夷地は広大なため縮めて省略する」との注記があるように,全体の姿は現在の地図によってイメージされる北海道とはまったく異なる姿になっている。
(図書寮文庫)
清和源氏と徳川氏の系図各1鋪からなる江戸中期の版本。それぞれ,清和天皇と徳川家康の父広忠(ひろただ)を円の中心として,同心円状に徳川将軍家の系譜を中心に記述している。冊子状の系図は,世代が進むに従って頁を繰る必要があるが,この資料は各世代を同心円内に記載することで,一見して世代関係が把握できるようにしようとしたものと思われる。
(図書寮文庫)
杉田玄白らが安永3年(1774)に刊行した,日本最初の西洋医学の翻訳書。序文と図からなる1冊と,本文4冊によって構成されている。図と本文は各篇毎に対応していて,各篇内の図には,本文に付された数字などが割り振られ,本文の記述が人体のどの部位を指しているかがわかるように工夫されている。
(図書寮文庫)
本書は,後桜町上皇(第117代,女性の天皇,1740-1813,在位1762-1770)七十の御賀の記録の一つ。上皇の御賀は,文化6年(1809)12月14日に催された。御賀に際しては,屏風の色紙形に貼られる和歌が詠進され,四季の情景を描いた屏風(六曲一双)が制作された。本書は,この折に制作された屏風絵の小下絵で,宮廷画家の鶴沢探泉(つるさわたんせん,?-1816)によるものであることが他の記録よりわかる。華やかな大和絵で描かれた屏風の様子を具体的に窺うことができる資料である。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇(第108代,1596-1680,在位1611-29)八十の御賀の記録の一つ。法皇は,歴代の天皇の中でもご長寿で,宝算85歳を数えられた。法皇八十の御賀は,延宝3年(1675)11月14日に催された。本書は,一枚の料紙を六曲一隻の屏風風に折りたたみ,屏風の形を再現する珍しい資料である。表・裏両面に書かれてはいるが,本来は別々に制作される一双を表したものと考えられる。これによって屏風の大きさや,各面の絵柄,和歌を書いた色紙形がどのような配列に貼られたのかなどが具体的にわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇八十の御賀に際して,法皇に贈呈された杖を描いたもの。杖は老の象徴だが,御賀の折には長寿を願い杖を贈る習慣があった。その素材は長寿を象徴する竹だったが,後には竹をかたどって白銀で作られることもあった。法皇に贈られた杖は白銀製であったことが本書よりわかる。『拾遺和歌集』にも,杖にちなんだ「君がため今日切る竹の杖なればまたともつきせぬ世々ぞこもれる」(巻5,賀)というお祝いの和歌がみえる。絵は白描(墨一色を用い筆線を主体として描く技法)ながらほぼ原寸大に描かれている。
(宮内公文書館)
「孝明天皇紀附図原稿」は,孝明天皇(1831-66)御一代の編年史料集である「孝明天皇紀」220巻の附図の下絵である。作成年代は,明治38年(1905)頃,作者は北小路随光(よりみつ)(1832-1916)らである。同資料に含まれる「和歌御会始之図」は,江戸時代の歌会始の様子を再現した貴重な絵図である。嘉永元年(1848)2月18日に御所(現京都御所)の小御所(こごしょ)で催された歌会始を描いている。
(図書寮文庫)
円山応挙(1733-95)が描いた富士山の図に,有栖川宮織仁親王(おりひと,1753-1820)が讃(画讃とも,絵の余白などに書き添えられた文章・漢詩・和歌のこと)を付された掛軸。「竜渕王」は,織仁親王が文化9年(1812)の出家後に称された号である。讃は後年に加えられたもの。「雲きりも及ばぬふじのたか根にはおもひくらぶる山の端ぞなき 竜渕王讃」。
(図書寮文庫)
桂宮初代の智仁親王(としひと,1579-1629)による富士山の図。元和3年(1617)に描かれたもの。同年に親王が徳川秀忠に対面するために江戸へ赴かれた折に記された『江戸道中日記』によれば,親王は実際に富士山をご覧になったことが分かる。
(図書寮文庫)
近江仁正寺藩(にしょうじはん)藩主市橋長昭(ながあき)が桜井雪鮮(さくらいせつせん)に描かせたもの。江戸時代後期に存在していた様々な種類の桜の花を美しく描いた画帖で,このように彩色が施された精密な桜の絵は,この時期としては非常に珍しい。画像は普賢象(ふげんぞう,普賢堂とも)という桜で,皇居東御苑にも同じ品種の桜がある。
(図書寮文庫)
霊元天皇(御在位1663-87)は和歌に力を注がれた天皇である。また能書でも知られている。
寛文13年(1673)3月21日の水無瀬殿法楽(後鳥羽天皇を祀る水無瀬神宮に献ずる法楽和歌)のうちの一首を掛け幅に仕立てたもの。松間花(まつのあいだのはな/しょうかんのはな)の題で詠まれた霊元天皇宸筆の御詠草。「立ちまじる松のときはにとりそへて千世もちらすな花の春風」と書かれている。(天皇は,通常自らの御製に御名を記されない。)
(図書寮文庫)
霊元天皇が古歌をお書きになった桜と楓の短冊。短冊本体に絵が描かれていて,輪郭に沿って切り取られた美麗な品である。桜には藤原定家(1162-1242)の「かざしおる道行人の袂までさくらに匂ふ二月の空」,紅葉には慈円(1155-1225)の「詠(ながめ)つる心の色をまづ染て木のはにうつるむら時雨哉」が書かれている。有栖川宮・高松宮に引き継がれていたもの。
(図書寮文庫)
土佐派の絵師土佐光孚(みつざね,1780-1852)の絵に,有栖川宮第7代韶仁親王(つなひと,1785-1845)が,和歌を画讃として書き込まれた掛け幅。「よしの山花のさかりもしるきまでふもとの川に色ぞうつろふ」と詠まれている。有栖川宮の歴代親王は,和歌と入木道(じゅぼくどう,書道のこと)にご堪能だった。秋篠宮殿下や常陸宮妃殿下も有栖川御流の書道を受け継がれている。