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桂宮初代の智仁親王(としひと,1579-1629)による富士山の図。元和3年(1617)に描かれたもの。同年に親王が徳川秀忠に対面するために江戸へ赴かれた折に記された『江戸道中日記』によれば,親王は実際に富士山をご覧になったことが分かる。
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近江仁正寺藩(にしょうじはん)藩主市橋長昭(ながあき)が桜井雪鮮(さくらいせつせん)に描かせたもの。江戸時代後期に存在していた様々な種類の桜の花を美しく描いた画帖で,このように彩色が施された精密な桜の絵は,この時期としては非常に珍しい。画像は普賢象(ふげんぞう,普賢堂とも)という桜で,皇居東御苑にも同じ品種の桜がある。
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霊元天皇(御在位1663-87)は和歌に力を注がれた天皇である。また能書でも知られている。
寛文13年(1673)3月21日の水無瀬殿法楽(後鳥羽天皇を祀る水無瀬神宮に献ずる法楽和歌)のうちの一首を掛け幅に仕立てたもの。松間花(まつのあいだのはな/しょうかんのはな)の題で詠まれた霊元天皇宸筆の御詠草。「立ちまじる松のときはにとりそへて千世もちらすな花の春風」と書かれている。(天皇は,通常自らの御製に御名を記されない。)
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霊元天皇が古歌をお書きになった桜と楓の短冊。短冊本体に絵が描かれていて,輪郭に沿って切り取られた美麗な品である。桜には藤原定家(1162-1242)の「かざしおる道行人の袂までさくらに匂ふ二月の空」,紅葉には慈円(1155-1225)の「詠(ながめ)つる心の色をまづ染て木のはにうつるむら時雨哉」が書かれている。有栖川宮・高松宮に引き継がれていたもの。
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土佐派の絵師土佐光孚(みつざね,1780-1852)の絵に,有栖川宮第7代韶仁親王(つなひと,1785-1845)が,和歌を画讃として書き込まれた掛け幅。「よしの山花のさかりもしるきまでふもとの川に色ぞうつろふ」と詠まれている。有栖川宮の歴代親王は,和歌と入木道(じゅぼくどう,書道のこと)にご堪能だった。秋篠宮殿下や常陸宮妃殿下も有栖川御流の書道を受け継がれている。
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桂宮家旧蔵の伊達政宗書状。すべて八条宮家の家司生島宮内少輔秀盛に宛てた書状。年次を欠いているが,内容や自署・花押の形から,元和から寛永年間の頃に書かれたとされている。この時期は八条宮家初代当主智仁親王(としひと),2代智忠親王(としただ)の代にあたる。伊達政宗と八条宮家の交流が伺える史料。全9通の内1通は,寛永11年(1634)のものと推測される政宗自筆の書状。
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浮世絵師北尾重政(きたおしげまさ)が描いたとされる相馬野馬追(のまおい)祭の絵図の版本(版木で印刷したもの)。野馬追祭は福島県浜通北部(旧中村藩下)で行われている祭事で,旧暦五月の中の申の日を中心に三日間行われた。絵図には江戸時代の野馬追祭の様子が生き生きと描かれている。
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古代の法典『延喜式』(えんぎしき)などから祈年祭の記事を抜き出すなどして調査した書物。江戸時代末期に成立したものと考えられる。祈年祭の歴史的変遷を知る手がかりとなる資料で,江戸時代の知識人にとっても古い時代の祈年祭が深い関心の対象であったことがわかる。
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赤穂浪士討入り時の吉良家の屋敷図。堀部安兵衛,大石主税(ちから)など,建物を取り囲む各浪士の配置位置が朱字で記され,臨場感あふれる仕上がり。文政13年(1830)の写しで,100年以上前の討入りへの関心の高さを示す。
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詔書とは,国家の重要な案件について,天皇の意志を伝えるために作成される文書である。掲出の資料は,安政3年(1856)8月8日,九条尚忠(ひさただ,1798-1871)を関白に任じる際に作られた詔書の原本である。
内容は,尚忠を関白に任じる旨の命令を,修辞を凝らした漢文体で記したものである。文章の起草・清書は大内記(だいないき,天皇意志に関わる文書の作成を職掌とする)東坊城夏長(なつなが)が担当し,料紙には黄紙(おうし)と呼ばれる鮮やかな黄蘗(きはだ)色の紙が用いられた。また,文書末尾の年月日部分のうち,日付の「八」のみ書きぶりが他と異なるが,これは自らの決裁を示す孝明天皇(1831-66)の宸筆であり,この記入を御画日(ごかくじつ)という。
尚忠は関白就任後,幕末の困難な政治情勢下において,江戸幕府と朝廷の間の折衝役として尽力した。しかし,日米修好通商条約の締結などをめぐって孝明天皇や廷臣の支持を得られず,最終的には文久2年(1862)に関白を辞任した。
なお,この時の関白任命にあたっては,いくつかの関連文書も共に作成されたが,図書寮文庫にはそれらの原本も所蔵されている(本資料のもう一点「随身兵仗勅書」および函架番号九・1638「九条尚忠関白・氏長者・随身牛車宣旨」)。
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固関(こげん)とは,古代において天皇の崩御や譲位などの重大事に際し,畿内に通じる主要道に設けられた三関,すなわち伊勢国鈴鹿関(すずかのせき),美濃国不破関(ふわのせき),越前国愛発関(あらちのせき,平安遷都後ほどなくして近江国逢坂関(おうさかのせき)にかわる)を封鎖する儀である。この儀では木契(もっけい)と呼ばれる割符を使用し,片方を関に赴く使者に携行させ,後日封鎖を解除する際に別の使者にもう片方を持参させ,現地で合わせて正式な使者であることを確認させた。
本資料は宝永6年(1709)東山天皇から中御門天皇への譲位儀に際して行われた固関儀で用いられたと推定される木契の実物で,その寸法は長さ約9.2㎝,両片を合わせた底面は約3㎝四方である。江戸時代には既に三関は廃絶していたが,固関儀は古式にのっとり引き続き行われていた。本資料は上卿を務めた九条輔実(すけざね,1669-1729)の手元に残され伝わったと考えられ,伊勢国あての左右と美濃国・近江国あての右片が現存する。当時の宮中儀礼の実像を知ることのできる興味深い資料である。
(図書寮文庫)
本資料は,安徳天皇(1178-85)の御即位を山陵に奉告する宣命(せんみょう)の案(下書き)の写しである。宣命とは,天皇の命令や意思を和文体で書いたもの。
安徳天皇は治承4年(1180),3歳で皇位を継承された。当時の記録により,使者が天智天皇などの山陵に遣わされたことや,宣命の起草と清書を勤めたのは少内記(しょうないき)大江成棟であることが知られるが,宣命の内容は本資料でわかる。山陵の厚い慈しみを受けることで,天下を無事に守ることができるであろう,との旨が記されている。実際の宣命は「官位姓名」を使者の名に,「某御陵」を山陵名に書き換えて,山陵一所につき一通が使者に授けられる。
本資料が収められる『古宣命』は,室町時代に書写された安徳天皇・後伏見上皇・光厳上皇・後醍醐天皇・後小松天皇の宣命案と,壬生忠利(ただとし,1600-63)の筆による後西天皇の宣命案などからなる。なお,本資料の紙背(裏面)に書かれているのは,壬生晴富(はれとみ,1422-97)の子・梵恕(ぼんじょ,幼名は弥一丸)の日記『梵恕記』とされる。