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(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(宮内公文書館)
明治6年(1873)の大和田原(現船橋・習志野・八千代市域)行幸の様子を描いたもの。この行幸の際に,同地は「習志野原」と命名された。本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇に奉呈された附図の稿本。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
習志野原御猟場の全域図。大正9年(1920)写。四つの管轄区域を色分けして描いている。習志野原御猟場は明治14年(1881)に設置された後,区域を増縮しながら大正11年に廃止された。
(宮内公文書館)
大正期の宮内省下総牧場(現成田・富里市域)の写真。明治天皇行幸を記念して敷地内に植えられた御幸桜。三里塚は桜の名所として知られていた。御料牧場は,明治8年(1875)に開設した内務省の下総牧羊場・取香種畜場(とっこうしゅちくじょう)に淵源を持つ。明治18年に下総種畜場が宮内省の所管となって以降,名称を下総牧場,下総御料牧場等と変遷しながら,昭和44年(1969)に閉場した。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に太宗(598-649)の命により魏徴(ぎちょう,580-643)が編纂した政治の要諦の書。唐・貞観6年(631)に成立し,全50巻。当時存在していた様々な図書より政治の参考とすべき事項を抜粋して編纂された。しかし本書は中国では既に宋の時代(日本の平安時代頃)には失われてしまっていたという。この本は,鎌倉幕府の執権であった北条氏一族金沢(かねさわ)氏の図書館であった金沢文庫に所蔵されていた鎌倉時代(13世紀)の写本。全50巻のうち3巻が欠けてはいるが,この本によって中国本土にも伝わらなかった『群書治要』の内容を知ることができる貴重なもの。
(図書寮文庫)
本書は,西晋の杜預(とよ,222-84)が孔子(BC552-479)の編纂と伝えられる歴史書『春秋』とその注釈書である『左氏伝』とをあわせ,更に注釈を加えて編纂したもの。全30巻。角書(つのがき,書名の上の小書の部分)の「杜氏」は杜預のことを指す。『左氏伝』は,様々な故事成語にちなんだ話を掲載している。この本は,鎌倉時代(13世紀)に幕府の執権であった北条氏が書写させたもので,もと金沢文庫に伝えられた。
(図書寮文庫)
本書は,中国南北朝時代の南朝の宋(5世紀)の時代の皇族であった劉義慶(りゅうぎけい,403-44)が,後漢末から東晋(3-5世紀)の著名人の逸話を集め編纂した小説集である。第一徳行篇,第二言語篇,第三政事篇のように内容によって36の章に分類されている。とりあげられている人物も曹操(そうそう,政治家)や王羲之(おうぎし,書家)など多岐にわたる。本書は,古代中国の著名人の言説や思想などを知ることのできるもので,我が国でも盛んに読まれた。この本は,中国南宋時代(12-13世紀)に刊行された版本(版木で印刷されたもの)で,全3冊。もと金沢文庫に伝えられた。
(図書寮文庫)
本書は,中国・宋の太宗(939-97)の命により李昉(りぼう,925-96)が編纂した類書(百科全書)で,宋・太平興国8年(983)に完成した。天・地・皇王など55部門に分かたれて編纂されている。この本は,南宋時代の慶元5年(1199)前後に刊行された版本で,もと金沢文庫に伝来。のち京都の相国寺に伝わり,同寺の西笑承兌(さいしょうじょうたい,1548-1608)が徳川家康に献上したものである。この本の前半の数十冊は欠けている箇所があり日本で手書きで書写されている。今回は,南宋時代に印刷された冊を掲げた。『太平御覧』は,平安時代末期には平清盛らによって輸入されていたことが知られ,いく組かが日本にわたってきている。
(図書寮文庫)
本書は,孔子の『論語』を魏の何晏(かあん,?-249)が注釈し,宋の邢昺(けいへい,932-1010)が疏(そ,詳細な注釈)を加えて成ったものである。この本は,南宋の寧宗時代(12世紀末-13世紀)に刊行された版本で,もと金沢文庫に伝えられた。宋版の同書は,中国に遺っていなかったため,昭和4年(1929)にはこの本をもとにしたコロタイプ印刷(写真を使った特殊印刷)による複製が中国で出版されている。『論語』理解に資する注釈書として尊重されたものといえる。
(図書寮文庫)
本書は,中国漢の時代に司馬遷(しばせん,BC140-?)によって編纂された『史記』を南朝の宋(5世紀)の時代に裴駰(はいいん,生没年未詳)が,のち唐の時代にも司馬貞(しばてい,生没年未詳)らが注釈したもの。内容は130巻で目録1巻を付す。『史記正義』ともよばれる。この本は,室町時代後期の公卿にして学者であった三条西実隆(さんじょうにしさねたか,1455-1537)によって書写された写本43冊である。奥書(書写の経緯を記した文章)によれば永正7年(1510)から同15年にかけて書写し,子息公条(きんえだ,1487-1563)が訓点(漢文の読み方を示した符号)を写したことがわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後光厳天皇(北朝第4代,御在位1352-71)の宸筆や関連文書をまとめたもので,5紙目(7番目の画像)以降が後光厳天皇の宸筆。画像は貞治元年(南朝は正平17年,1362),天皇25歳の時の書と考えられている。兄の崇光天皇が,その皇子栄仁親王(よしひと)の書道の手本のために名筆を所望されたことに対しての御返書と推測される。小野道風,嵯峨天皇,醍醐天皇等の書についての言及が見られ,当時名筆とされたものをうかがうことができ,書道史の面からも貴重な史料と言える。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,御在位1382-1412)宸筆による,応永17年(1410)8月29日に,山科教豊(やましなのりとよ,のちに家豊と改名)へ箏の秘曲「蘇合香」(そこう)を伝授されたことを証明する御伝授状で,天皇34歳の時の書。「蘇合香」は雅楽の曲の一つであり,インドのアショカ王(阿育王)が病に倒れた時,蘇合香という薬草を服用し,全快したことを喜んで曲を作ったことが由来である。序・三帖・四帖・五帖・破・急の六章からなっており,この時はそのうち四帖の拍子の取り方を伝授されたと考えられている。日付の下の書き付けは後小松天皇の御花押(署名を文様化したもの)。
(図書寮文庫)
本書は,後花園天皇(第102代,御在位1428-64)の宸筆をまとめたもので,画像は永享7年(1435)9月15日,父の貞成親王(さだふさ)に宛てられた御消息(手紙)。天皇17歳の時の書で,貞成親王書写の『金葉和歌集』等が天皇のもとへ献上されたことへの御礼と,和歌が「散らし書き」という書式で書かれている。紙の中途から書き始め,書き進めるにつれて余白に書いていくために次第に字も小さくなるため,大きな文字のグループから読んでいくことになる。
(図書寮文庫)
本書は,後土御門天皇(第103代,御在位1464-1500)の宸筆をまとめたもので,画像は文明13年(1481)9月13日,伏見宮邦高親王(くにたか)に宛てられたもの。天皇40歳の時の書で,親王が琵琶の秘曲「大常博士楊真操」(だいじょうはくしようしんそう)を伝授されたことにお祝いの言葉を述べられ,太刀を賜る旨が書かれている。「散らし書き」の書式で書かれており,本紙右側を3分の1ほど空けて書き始め,行の頭を段々下げて2グループ書き,さらに右端の下半分に続いている。
(図書寮文庫)
本書は,後柏原天皇(第104代,御在位1500-26)宸筆の色紙幅で,金・銀の薄と月の下絵に漢詩と古歌が散らし書きにされている。漢詩は出典未詳,和歌は4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』第235番歌(よみ人知らず)。薄,月は秋の景物であり,漢詩,和歌共に風による秋の到来を実感させるものが選ばれている。
(図書寮文庫)
本書は,後奈良天皇(第105代,御在位1526-57)宸筆の和歌懐紙で,永正9年(1512)七夕和歌御会の際に詠進された,天皇がまだ親王であった17歳の時の書と考えられている。歌は区切れとは関係なく3行と3文字に分けて書かれており,この書き方は現在の歌会始の懐紙でも受け継がれている。
(図書寮文庫)
正和5年(1316)6月作成。和泉国日根荘(ひねのしょう,日根野荘とも,現在の大阪府泉佐野市)は,摂関家である九条家の荘園であった。その荘園開発を一任された久米田寺(くめだでら)が基礎資料として作成した絵図。裏書によって年次が判明する。縦86.2cm,横58.4cm。その景観は現在に残され,日根荘遺蹟の一部は平成10年(1998)荘園遺跡として国史跡に指定された。関西国際空港はこの図の下方,西の方向に位置する。
なお,これを収めた九条家文書とは,九条家に伝来した文書群で,代々の譲状や所領など,家の経済や存続に関連する資料などを集めたもの。『図書寮叢刊』(全7冊,昭和46-52年)にて刊行。全326点。