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(図書寮文庫)
清和源氏と徳川氏の系図各1鋪からなる江戸中期の版本。それぞれ,清和天皇と徳川家康の父広忠(ひろただ)を円の中心として,同心円状に徳川将軍家の系譜を中心に記述している。冊子状の系図は,世代が進むに従って頁を繰る必要があるが,この資料は各世代を同心円内に記載することで,一見して世代関係が把握できるようにしようとしたものと思われる。
(図書寮文庫)
杉田玄白らが安永3年(1774)に刊行した,日本最初の西洋医学の翻訳書。序文と図からなる1冊と,本文4冊によって構成されている。図と本文は各篇毎に対応していて,各篇内の図には,本文に付された数字などが割り振られ,本文の記述が人体のどの部位を指しているかがわかるように工夫されている。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。
(図書寮文庫)
明治20年(1887)頃の写真で,那覇を中心とした沖縄の風景や人物が撮影されている。沖縄を写した写真としてはかなり古く,明治12年の琉球処分からそれほどの歳月を経ていないだけに,琉球国時代の雰囲気が色濃く残るものとなっている。
(宮内公文書館)
松ヶ岡開墾場は明治5年(1872)から旧庄内藩士族3千名によって開拓された。明治14年の明治天皇東北巡幸時,同所に差遣された北白川宮能久親王(よしひさしんのう)が写真を持ち帰り天皇にお渡しした。蚕室の構造は,富岡製糸場で有名な群馬地方から導入した上州式(二階建ての上に換気用屋根がある)である。また,開墾場では多くの女性が働いていたことも写し出されている。開墾当初は農作物の収獲は見込めないことから,女性たちの養蚕による収入はまさに生命線だったのである。なお明治41年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)が同所に行啓された際,当時と同じ写真が再び献上された。今回のギャラリーではこの時の写真を使用している。
(図書寮文庫)
「琵琶湖疏水工事之図」は,明治20年(1887)に明治天皇が京都府庁に行幸された際,府知事北垣国道(きたがきくにみち)より献上された絵図である。京都府画学校教諭で洋画家の田村宗立(そうりゅう)の指導のもと,学校の優等生徒10名が分担して写景に当たったもので,全3巻,計40図からなる。第一巻・第二巻には工事現場の見取り図が,第三巻には工事竣成後の予想図が収められている。工事における困難や,疏水完成後の姿が期待を込めて美しい彩色によって描かれている。掲載した図は,第一トンネル入口付近の京都側の工事場面を描いたものである。
(図書寮文庫)
明治43年(1910)11月14日,岡山県の岡山孤児院に派遣された侍従が持ち帰った写真帖である。同院は明治37年以降,明治天皇・皇后(昭憲皇太后)から下賜金を賜わるなど,皇室からも注目される慈善活動を展開していた。写真帖には子供達の食事の様子や授業風景の他,著名な会社の寄付で建造された建物(ライオン館),ロシア人や朝鮮人孤児の写真も含まれており,広範な慈善活動の一端が垣間見える。
(宮内公文書館)
日本のスキー発祥の地は新潟県上越市とされている。これは明治44年(1911)1月に,同地でオーストリア国陸軍のレルヒ少佐が日本兵にスキー技術を指導したことに由来する。レルヒ少佐によるスキー指導を記録した写真は,この状況を視察するために派遣された侍従武官が持ち帰ったものと思われる。「雪艇(スキー)」という単語や,ストックが1本だったことなど,新技術として導入されて間もない時期ならではの情報が含まれる。ちなみに上越市のゆるキャラ「レルヒさん」も,先のソチ五輪ノルディックジャンプ男子団体銅メダルメンバー清水礼留飛(れるひ)選手の名前も,レルヒ少佐に由来している。
(図書寮文庫)
平安時代初期に成立した勅撰の儀式書。上中下の3巻よりなるが,当部所蔵書は中巻のみの1巻。表紙・本文第1紙は九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の筆により,本文第2紙以降は鎌倉時代末期の書写とみられる。
画像は冒頭の奏成選短冊式(じょうせんたんざくをそうすしき)の部分で,2月に行われる列見(れけん,位階の昇進の決まった官人を面接する儀式)に続いて,位階が昇進する官人の名簿等を奏上する儀式。ちなみに本書では4月11日となっているが,「本朝月令」(ほんちょうがつりょう)に引用された「貞観式」(じょうがんしき)の条文には同儀式は4月7日となっており,「貞観式」において式日が変更されたことが分かる。
(図書寮文庫)
10世紀前半の成立と考えられている惟宗公方(これむねのきんかた)の撰による現存最古の年中行事書。本書は建武3年(1336)の九条道教(くじょうみちのり)の一見奥書(一覧したことを記す奥書)を持つ現存最古写本であり,4月から6月までの行事を収める。
画像は5月6日の競馬(くらべうま)の箇所で,5月5日,6日の両日に騎射(うまゆみ)とともに行われる。本書の特徴は様々な典籍の引用であるが,画像に「弘仁馬寮式」「貞観馬寮式」「貞観内匠式」とあるのは,「弘仁式」(弘仁年間〈810-24〉に編纂,天長7年〈830〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮の式や,「貞観式」(「弘仁式」を訂正,増補し,貞観13年〈871〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮,内匠寮の式の条文の一部である。「弘仁式」や「貞観式」は典籍としては現存しないので,「本朝月令」に引用されたこれらの条文は,「弘仁式」や「貞観式」の内容を知るうえで貴重な史料となっている。
(図書寮文庫)
大江匡房(おおえのまさふさ,1041-1111)撰による朝儀・公事の次第を詳述した書。後西天皇宸筆とされる「行類抄」(ぎょうるいしょう)との外題があるが,内容より「江家次第」巻5とみられ,本来,東山御文庫に伝来する同書と一巻をなしていた。
画像は2月11日の列見の部分。東山御文庫本はこの巻5の冒頭を欠き,釈奠(せきてん,孔子及びその弟子をまつる儒教の儀礼)の途中から春日祭の途中までを収めているが,本書はそれに続く部分で,春日祭の途中から季御読経(きのみどきょう,季毎に天皇の安寧と国家の安泰を祈願する仏事)までを収めている。両者を合わせることにより「江家次第」巻5をほぼ網羅することとなる。
(図書寮文庫)
平安時代から清涼殿には,儀式や祭祀等が書き連ねてあった衝立障子が備え付けられていた。本書はそれを書写したものである。甘露寺親長(かんろじちかなが,1424-1500)の奥書を持つ。「百官唐名」(ひゃっかんとうめい,日本の官職名に唐の官職名をあてたもの)と合綴されている。
画像は5月の年中行事の部分で,「平家本」「中家本」といった諸家の本による注記が書き込まれていたり,色分けされた読み方が見えている。これらは本奥書によれば,諸家による読み方毎に色分けしたものであり,行事名の正確な読み方が重要視されていたことが分かる。現在の清涼殿の年中行事障子については,「《京都》御所と離宮の栞(其の三)」(PDF:http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori3.pdf)を参照。
(図書寮文庫)
「年中行事御障子文」をもとに,中原師遠(なかはらもろとお,1070-1130)が新規に行事を加えたり,注記を施した年中行事書で,一般に「師遠年中行事」と称されている。鎌倉時代初期の書写本で,対応する項目の裏書がある。
画像は5月の箇所。年中行事御障子文と比較してみると,項目の増減等が若干あるもののおおよそ同じであることが分かる。小字が書かれたものが新たに書き加えられた行事である。中原家は大外記(だいげき,書類の上奏や儀式等を執り行う実務官人の上位の官)を世襲する家で,師遠も大外記を務めた。
(図書寮文庫)
平安時代末期に後白河法皇(1127-92)の命により朝廷における年中行事の場面を描いた絵巻。もとは60巻と伝えられている。江戸中期写。
画像は巻14の賀茂斎院御禊東河儀(かもさいいんごけいとうがのぎ)の部分で,賀茂祭に際して,賀茂川の西岸の御禊所で賀茂斎王(さいおう,賀茂大神に奉仕する未婚の内親王または女王)が禊をされる儀式の場面である。本書は一般に知られている禁裏に伝えられた本を住吉如慶(すみよしじょけい,1599-1670)が書写した16巻本とは別系統の20巻本である。
(図書寮文庫)
『新儀式』は,平安時代に編纂された編纂者未詳の儀式書。本来は6巻あったとされているが,現存するのは巻4,5の2巻のみ。本書には天皇御賀に関わる儀式の次第を収録している。本書は,現存する写本の中で最も古い鎌倉時代に書写されたものである。天皇御賀の儀式は,既に聖武天皇(第45代,701-56,在位724-49)の時代にあったとされており,早い時期より宮廷の中で一般化していたと考えられる。
(図書寮文庫)
本和歌集は,八代集の第3番目の勅撰集。花山天皇(第65代,968-1008,在位984-86)の編によるものとされ,11世紀の初めに成立した。本書には,四季・賀・雑等の部立にわたって30首以上の御賀和歌が入集されており,他の勅撰集よりその数が多いのが特徴である。画像は,承平4年(934)3月26日に朱雀天皇(第61代,923-52,在位930-46)によって催された皇太后藤原穏子(おんし)五十の御賀に際して紀文幹(きのふみもと)が詠んだ屏風和歌「春霞たてるを見れば荒玉の年は山よりこゆるなりけり」。穏子は醍醐天皇(第60代,885-930,在位897-930)の后で五条后(ごじょうのきさい)と称された。なお,本書は,鎌倉時代の正応3年(1290)に書写された拾遺和歌集古写本の一つとして知られている。
(図書寮文庫)
本書は,天皇母后の御賀の記事を編纂した部類記で,清和天皇(第56代,850-80,在位858-76)母后藤原明子(あきらけいこ)四十,五十御賀のほか,母后四方の御賀,並びに藤原道長室源倫子(りんし)・藤原師通(もろみち)室藤原全子(またこ)の御賀の記事を載せている。本書は南北朝時代に書写された現存最古の写本。画像は藤原明子四十御賀の記事で,貞観13年(871)12月5日~9日のご長寿を祈願して行われた修法等の記録。明子は藤原良房(よしふさ)の娘で文徳天皇(第55代,827-58,在位850-58)の女御となり,のち染殿后(そめどののきさい)と称された。
(図書寮文庫)
本書は,後桜町上皇(第117代,女性の天皇,1740-1813,在位1762-1770)七十の御賀の記録の一つ。上皇の御賀は,文化6年(1809)12月14日に催された。御賀に際しては,屏風の色紙形に貼られる和歌が詠進され,四季の情景を描いた屏風(六曲一双)が制作された。本書は,この折に制作された屏風絵の小下絵で,宮廷画家の鶴沢探泉(つるさわたんせん,?-1816)によるものであることが他の記録よりわかる。華やかな大和絵で描かれた屏風の様子を具体的に窺うことができる資料である。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇(第108代,1596-1680,在位1611-29)八十の御賀の記録の一つ。法皇は,歴代の天皇の中でもご長寿で,宝算85歳を数えられた。法皇八十の御賀は,延宝3年(1675)11月14日に催された。本書は,一枚の料紙を六曲一隻の屏風風に折りたたみ,屏風の形を再現する珍しい資料である。表・裏両面に書かれてはいるが,本来は別々に制作される一双を表したものと考えられる。これによって屏風の大きさや,各面の絵柄,和歌を書いた色紙形がどのような配列に貼られたのかなどが具体的にわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇八十の御賀に際して,法皇に贈呈された杖を描いたもの。杖は老の象徴だが,御賀の折には長寿を願い杖を贈る習慣があった。その素材は長寿を象徴する竹だったが,後には竹をかたどって白銀で作られることもあった。法皇に贈られた杖は白銀製であったことが本書よりわかる。『拾遺和歌集』にも,杖にちなんだ「君がため今日切る竹の杖なればまたともつきせぬ世々ぞこもれる」(巻5,賀)というお祝いの和歌がみえる。絵は白描(墨一色を用い筆線を主体として描く技法)ながらほぼ原寸大に描かれている。