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(図書寮文庫)
「年中行事御障子文」をもとに,中原師遠(なかはらもろとお,1070-1130)が新規に行事を加えたり,注記を施した年中行事書で,一般に「師遠年中行事」と称されている。鎌倉時代初期の書写本で,対応する項目の裏書がある。
画像は5月の箇所。年中行事御障子文と比較してみると,項目の増減等が若干あるもののおおよそ同じであることが分かる。小字が書かれたものが新たに書き加えられた行事である。中原家は大外記(だいげき,書類の上奏や儀式等を執り行う実務官人の上位の官)を世襲する家で,師遠も大外記を務めた。
(図書寮文庫)
平安時代末期に後白河法皇(1127-92)の命により朝廷における年中行事の場面を描いた絵巻。もとは60巻と伝えられている。江戸中期写。
画像は巻14の賀茂斎院御禊東河儀(かもさいいんごけいとうがのぎ)の部分で,賀茂祭に際して,賀茂川の西岸の御禊所で賀茂斎王(さいおう,賀茂大神に奉仕する未婚の内親王または女王)が禊をされる儀式の場面である。本書は一般に知られている禁裏に伝えられた本を住吉如慶(すみよしじょけい,1599-1670)が書写した16巻本とは別系統の20巻本である。
(図書寮文庫)
『新儀式』は,平安時代に編纂された編纂者未詳の儀式書。本来は6巻あったとされているが,現存するのは巻4,5の2巻のみ。本書には天皇御賀に関わる儀式の次第を収録している。本書は,現存する写本の中で最も古い鎌倉時代に書写されたものである。天皇御賀の儀式は,既に聖武天皇(第45代,701-56,在位724-49)の時代にあったとされており,早い時期より宮廷の中で一般化していたと考えられる。
(図書寮文庫)
本和歌集は,八代集の第3番目の勅撰集。花山天皇(第65代,968-1008,在位984-86)の編によるものとされ,11世紀の初めに成立した。本書には,四季・賀・雑等の部立にわたって30首以上の御賀和歌が入集されており,他の勅撰集よりその数が多いのが特徴である。画像は,承平4年(934)3月26日に朱雀天皇(第61代,923-52,在位930-46)によって催された皇太后藤原穏子(おんし)五十の御賀に際して紀文幹(きのふみもと)が詠んだ屏風和歌「春霞たてるを見れば荒玉の年は山よりこゆるなりけり」。穏子は醍醐天皇(第60代,885-930,在位897-930)の后で五条后(ごじょうのきさい)と称された。なお,本書は,鎌倉時代の正応3年(1290)に書写された拾遺和歌集古写本の一つとして知られている。
(図書寮文庫)
本書は,天皇母后の御賀の記事を編纂した部類記で,清和天皇(第56代,850-80,在位858-76)母后藤原明子(あきらけいこ)四十,五十御賀のほか,母后四方の御賀,並びに藤原道長室源倫子(りんし)・藤原師通(もろみち)室藤原全子(またこ)の御賀の記事を載せている。本書は南北朝時代に書写された現存最古の写本。画像は藤原明子四十御賀の記事で,貞観13年(871)12月5日~9日のご長寿を祈願して行われた修法等の記録。明子は藤原良房(よしふさ)の娘で文徳天皇(第55代,827-58,在位850-58)の女御となり,のち染殿后(そめどののきさい)と称された。
(図書寮文庫)
本書は,後桜町上皇(第117代,女性の天皇,1740-1813,在位1762-1770)七十の御賀の記録の一つ。上皇の御賀は,文化6年(1809)12月14日に催された。御賀に際しては,屏風の色紙形に貼られる和歌が詠進され,四季の情景を描いた屏風(六曲一双)が制作された。本書は,この折に制作された屏風絵の小下絵で,宮廷画家の鶴沢探泉(つるさわたんせん,?-1816)によるものであることが他の記録よりわかる。華やかな大和絵で描かれた屏風の様子を具体的に窺うことができる資料である。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇(第108代,1596-1680,在位1611-29)八十の御賀の記録の一つ。法皇は,歴代の天皇の中でもご長寿で,宝算85歳を数えられた。法皇八十の御賀は,延宝3年(1675)11月14日に催された。本書は,一枚の料紙を六曲一隻の屏風風に折りたたみ,屏風の形を再現する珍しい資料である。表・裏両面に書かれてはいるが,本来は別々に制作される一双を表したものと考えられる。これによって屏風の大きさや,各面の絵柄,和歌を書いた色紙形がどのような配列に貼られたのかなどが具体的にわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇八十の御賀に際して,法皇に贈呈された杖を描いたもの。杖は老の象徴だが,御賀の折には長寿を願い杖を贈る習慣があった。その素材は長寿を象徴する竹だったが,後には竹をかたどって白銀で作られることもあった。法皇に贈られた杖は白銀製であったことが本書よりわかる。『拾遺和歌集』にも,杖にちなんだ「君がため今日切る竹の杖なればまたともつきせぬ世々ぞこもれる」(巻5,賀)というお祝いの和歌がみえる。絵は白描(墨一色を用い筆線を主体として描く技法)ながらほぼ原寸大に描かれている。
(宮内公文書館)
「孝明天皇紀附図原稿」は,孝明天皇(1831-66)御一代の編年史料集である「孝明天皇紀」220巻の附図の下絵である。作成年代は,明治38年(1905)頃,作者は北小路随光(よりみつ)(1832-1916)らである。同資料に含まれる「和歌御会始之図」は,江戸時代の歌会始の様子を再現した貴重な絵図である。嘉永元年(1848)2月18日に御所(現京都御所)の小御所(こごしょ)で催された歌会始を描いている。
(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。
(宮内公文書館)
有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)(1812-86)が,明治14年(1881)の歌会始で詠進した懐紙である。「直なるすがたにちよの色ミせてうてなの竹ハいやさか枝津川(えつつ)」。懐紙の書式は,前近代の様式(3行と3字など)を踏まえつつも変化し,明治14年に確定した。皇族の場合,端作(はしづくり)(料紙右端にある題などを記した端書き)は「新年詠〇〇(題)歌」または「新年詠〇〇応制歌」と記すことで定まった。
(宮内公文書館)
歌会始で詠進されたすべての歌を書写した資料である。明治8年(1875)から同19年までの26冊が伝来している。最も古い明治8年は6冊から成り,御製・御歌以下皇族・華族・士族・平民からの詠進歌が写されている。一般からの詠進を募るようになったのは明治7年のことであったが,詠進歌の数は次第に増加してゆき,明治20年に約6500首であったのが明治末年には2万7000首を越えている。
(図書寮文庫)
これは,慶応2年(1866)正月23日に木戸孝允より坂本龍馬(1836-67)に宛てられ,2月5日,裏に龍馬自筆で薩長同盟の裏書をし,木戸に送り返された書簡。表は薩長同盟の6か条を記した木戸の書簡で,龍馬がその求めに応じ,6か条に誤りがないことを保証するため朱墨で裏書をした。薩長同盟の内容はこの書簡によって明らかとなる。画像は龍馬による裏書部分。
(図書寮文庫)
これは,初代内閣総理大臣となった伊藤博文(1841-1909)の明治9年(1876)12月5日付木戸宛の書簡。冒頭に「華族バンク」とあり,華族の出資で設立され,「華族銀行」とも称された第十五国立銀行関係のものと分かる。同行は,明治10年5月21日に開業し,木戸はその5日後に亡くなった。同行は大正2年(1913)に宮内省本金庫事務取扱(宮内省の指定銀行)になった。
(図書寮文庫)
これは,奇兵隊などで著名な長州藩士・高杉晋作(1839-67)の慶応2年(1866)2月20日付木戸宛の書簡。本文中に「英人,薩士と会和の事」という文言があり,いわゆる「薩英戦争」(1863)後の両当事者の歩み寄りについて書かれたものである。なお,この前後にも同様の文言の見える書簡が並ぶところから,長州藩内でも英国と薩摩藩との動静に並々ならぬ関心があったことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,幕末維新期,薩摩藩の大立者であった小松清廉(1835-70)の明治元年(1868)閏4月17日付の木戸宛の書簡。文中に「徳川御所置(=御処置)」の文言があり,画像にも「家名相続は徳川亀之助(家達)」「秩禄高百十万石」「移封の地は駿府」と見える。別に「徳川御所置」という文言を含む書簡もあるので,木戸・小松という薩長首脳部の間で,当時慶喜隠居後の徳川家の処遇をめぐる議論がなされていたことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,薩摩藩士の大久保利通(1830-78)が一蔵(いちぞう)と名乗っていた時期の書簡。書かれた年次は不明だが,正月2日に木戸宛に送られたもの。当時の情勢に触れた本文では黒田(清隆)・村田(新八)・川村(純義)といった薩摩藩の人名が見えるほか,「上坂」(大坂に上ること)とあるので,関西方面での動きに注目したもののようだ。また追伸部分は,明治天皇の御動座に関する内容で,「物議騒然」たるときゆえ「用心」せよと書かれている。
(図書寮文庫)
これは,かつて肥前佐賀支藩・鹿島(かしま)藩主であった鍋島直彬(なべしまなおよし,1843-1915)が明治10年(1877)5月13日付で木戸に充てた書簡。鍋島は渡米経験もあり,その経験に相応しく,朱で世界地図を印刷した珍しい紙に手紙を書いている。同年の西南戦争に際し旧領鎮撫のために肥前に下った鍋島が,現地の近況を報告するとともに,木戸の病の重いことを聞き療養を勧めている。木戸は同月26日に,国家を案じつつ亡くなった。