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(宮内公文書館)
埼玉県下の江戸川筋御猟場は、明治16年(1883)の設置後、史料が作成された明治24年まで「人民苦情」もなく運営を続けてきた。しかし、千葉県などに設置された他の御猟場からは、農作物の被害などが多く、解除願いを出されるなど、宮内省は「時勢之変遷ニ随ヒ猶数十年之後迄」御猟場を継続するためには、「今日より粗計画無之テハ難相成」と考えていた。そこで、宮内省は埼玉県と御猟場を区域とする町村との間に契約を結ばせ、手当金を支払うことを決定する。史料は、その件に関して主猟局長であった山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)から埼玉県知事の久保田貫一(くぼたかんいち、1850-1942)へ宛てた照会文書の決裁である。埼玉県との調整の末、向こう15年間の契約で1反歩(約1,000平方メートル)あたり5厘の手当金が出されることになった。この後、契約の切れる明治39年に御猟場のある町村では、契約の更新か、打ち切りかをめぐって「御猟場問題」が持ち上がることになる。
(宮内公文書館)
宮内省主猟局長を務めた山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)の日記の写本。山口は明治天皇からの内命を受けて狩猟をするため、あるいは御猟場を見回るために、しばしば各地の御猟場を訪れている。明治25年(1892)2月1日からは、出張を命じられ千葉・埼玉の両県にまたがる江戸川筋御猟場を訪ねた。千葉県側から御猟場に入った山口は、2月3日より埼玉県側に移り、翌4日には宝珠花村(ほうしゅばなむら、現春日部市)に至る。史料は、4日の記事である。宝珠花村の堤上から雁猟(がんりょう)を見ていた山口は、見回(猟師)に雁猟の方法を指示すると、14羽の雁を猟獲したという。その日は午後から降雪のため、宝珠花村の中島市兵衛宅に宿泊し、雁猟をしていた見回(猟師)らを招いて晩酌をし、見回(猟師)らは皆、的確な山口の指示を賞賛したことが述べられている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
御猟場とは、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治17年(1884)、宮内省内に御猟場掛が設置され、明治21年には主猟局、同41年には主猟寮と改められ、全国の御猟場を管理していった。史料は明治16年6月に東京府(無色)・千葉県(朱色)・埼玉県(黄色)にわたる広範な範囲に設定された江戸川筋御猟場の範囲を示すものである。この時、習志野原(千葉県)、連光寺村(神奈川県、現在の東京都)、千波湖(茨城県)の3か所もあわせて御猟場に設定されている。江戸川筋御猟場では雁や鴨、鷭(ばん)、鷺、雉子(きじ)、千鳥などを対象に鳥猟が行われた。
東側はおよそ江戸川を、西側は陸羽街道(日光街道)を境界として、南側は東京湾まで範囲(史料中の朱線の内側)がおよんでいることがわかる。さらに、明治16年9月には東京府全域が削除され、明治17年6月には西側の境界が陸羽街道から岩槻街道へと広げられるなど、区域が改められた。この後、江戸川筋御猟場は縮小と拡大を繰り返しながらも存続し、昭和26年(1951)に廃止された。
(宮内公文書館)
山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)は水戸藩の出身で、明治期に長く侍従を務め、御猟場掛長、主猟局長、主殿(とのも)頭などを歴任した。史料は山口正定の日記で、大正9年(1920)に臨時帝室編修局が写したものである。宮内公文書館には、明治9年(1876)から亡くなる明治35年までの日記が断続的に残されている。
史料は、明治17年4月21日から25日に至る記事である。この時、山口は御猟場掛長として、江戸川筋御猟場の区域内を巡回している。記事を見ると、21日には巡回中に藤塚村(現在の春日部市)の高橋豊吉宅で鯉魚の饗宴があり、夜は幸手宿(現在の幸手市)の田口清平宅に宿泊している。22日には行幸堤(みゆきづつみ、現在の幸手市)を訪れ、土手に咲く満開の菜花を見て詩を詠んでいる。22日から24日までは西宝珠花村(にしほうしゅばな、現在の春日部市)の中島市平宅に宿泊しており、依頼を受けて揮毫をしたり、雉子(きじ)猟をしたりするなど、地域の人びとと交流している。山口にとって、御猟場の巡回は、区域内を見回るだけでなく、御猟場の運営に携わる地域の人びととの交流も目的にあったことがうかがえる。
(宮内公文書館)
御猟場は多くの場合、官有地ではなく民有地(民間の土地)に設定された。そのため宮内省では、各御猟場に監守長を置き、その下に監守を置いて御猟場の管理・運営にあたらせていた。監守の業務は、猟具の管理や担当する区域内の見回りなど多岐にわたるが、御猟場の境界に設置された標木の管理もその一つである。江戸川筋御猟場も多くの御猟場と同様に、ほとんどが民有地に設定されていた。そのため、御猟場の境界がわかりにくく、御猟場設置の当初から標木が設置されており、御猟場の縮小や拡大があるたびに、監守は標木の差し替えを行っていた。
史料はこうした標木のうち、明治32年(1899)に定められた江戸川筋御猟場に設置する標木の英文表記である。ここでは、“IMPERIAL PRESERVES”すなわち皇室の御猟場(直訳すると皇室の保護区)において鳥や動物を撃ったり、罠にかけたりすることを固く禁じている。こうした英文の標木が設置されたことは、明治32年当時において江戸川筋御猟場の利用者に日本人のみならず、一定程度の外国人もいたことを示している。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
明治23年(1890)8月、北関東は暴風雨により洪水の被害に見舞われた。このときの水害では、利根川、荒川流域の堤防が決壊し、埼玉県にも被害をもたらした。
史料は、その際の被害状況を明治天皇に報告するために作成された書類のうち、南埼玉郡の浸水地域を示した図面である。南埼玉郡は、明治12年の郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)施行により成立した。史料右側が北の方角で、範囲は南埼玉郡(現在のさいたま市岩槻区、蓮田市、白岡市、久喜市、宮代町、春日部市、越谷市、草加市、八潮市)に相当する。史料の左側(南部)は垳川(がけがわ)を挟んで東京府南足立郡(現在の東京都足立区)と接している。史料中の緑色に着色された部分が浸水地で、南埼玉郡では5か町39か村が浸水したことが見て取れる。被害の大きな地域では、水が軒まで及ぶところもあったというほどである。
以上のような被害報告を受けて、救恤金(きゅうじゅつきん)として明治天皇から金700円、昭憲皇太后から金300円が埼玉県に下賜された。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の公卿九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の自筆日記。寛永11年(1634)記は,現存する道房の日記のうち最初の年次のもの。この年の暦1巻の余白部分に書かれており,書き切れない場合はその部分に白紙を継ぎ足して,本文の続きや図が書き込まれている。
道房は初めの名を忠象(ただかた)といい,父は摂関家の一つである九条家の当主幸家(ゆきいえ),母は豊臣秀勝(秀吉の甥)の娘完子。兄に二条家の養子となった康道がいる。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)によれば,道房は寛永9年12月に24才で内大臣に任じられているが,当時,大臣クラスの人事には江戸幕府の承認が必要であり,その調整に歳月を要したため,実際に任官が認められたのは同12年7月のことであった。この経緯は,寛永11年記にも散見され,道房が日記をつけ始めたことと関係がありそうである。
このほかの記事も豊富で,実弟の道基(みちもと,後の松殿道昭)の元服,将軍徳川家光の京都入り,白馬節会などの宮廷儀式の作法,和歌懐紙の書き様など,内容は多岐にわたり,公家社会の様相はもとより,江戸時代前期の政治や文化を知る上で欠かせない貴重な資料となっている。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(宮内庁書陵部,令和4年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
この勾玉を作った人や使った人はどのような祈りや願いを込めていたのだろうか。
「勾玉」は古墳時代の人々が最も好んだ玉であるといえる。多くは管玉などほかの玉と組み合わされて首飾りなどのアクセサリーに用いられていた。勾玉の独特なかたちは日本列島内で独自に発展したものであるが,そのルーツについてはよくわかっておらず,動物の牙(きば)という説,胎児(たいじ)を模したものであるという説などがある。
今回紹介する「大勾玉」は,全長9.7㎝,重さ200g超と,類例のない大きさである。サイズ,ボリュームともアクセサリーとして身につけるにはあきらかに不向きといえよう。紐をとおすための孔の周囲は,曲線や直線,直線を組み合わせた三角形などが刻まれて飾られているが,これも通常の勾玉には見られないものである。
「玉」という名称は,「魂(たま)」や「霊(たま)」と語源が同じといわれ,マジカルな力やミステリアスな力を宿す呪術具としての意味を持つとも考えられている。以前に本コーナーで紹介した「子持勾玉」は,そうした呪術的な側面がかたちに表れているものであるが,本品も,かたちこそ通常の勾玉と同じであるが,その大きさや装飾は,身体を飾るアクセサリーとしてではない,呪術具としての側面を現しているものであると考えられる。
これだけ大きな勾玉は古墳時代の出土品としてはほかに例がない。本品は,古墳時代に生きた人々の精神的な活動を知るための手がかりとなる,重要な遺物といえよう。
(図書寮文庫)
本記は,九条道房の自筆日記のうち,寛永16年(1639)10月の仙洞歌合(うたあわせ)に関する,別記的な性格を持つ記録。歌合とは歌人を左右にわけて,和歌の優劣を競う催しで,各組が相手の詠草(えいそう)を論ずる(難陳〈なんちん,ディベート〉)。当時の仙洞(上皇)は後水尾上皇(ごみずのお)で,上皇は久しく行われていなかった仙洞歌合の開催に意欲的だった。上皇より歌題を賜った道房は,歌人の中院通村(なかのいんみちむら)と相談し,詠草を整え進上する(9月22,29,30日条)。次いで二度の御習礼(リハーサル)を行い(10月3,4日条),歌合当日を迎える(10月5日条)。久しぶりの開催で,当時実力のある歌人に恵まれなかったため,予定調和とはならず,道房の詠草は通村と調整したにもかかわらず,難陳での行き違いから水無瀬氏成(みなせうじなり)との論戦に発展,道房には不満の残る行事となってしまったらしい。なお,この歌合については,参加者だった近衛信尋(このえのぶひろ)・八条宮智忠親王(はちじょうのみやとしただしんのう)・中院通純(みちずみ)・勧修寺経広(かじゅうじつねひろ)などの記録や,詠草・判詞(優劣についての審判である判者のコメント)を載せた『寛永十六年仙洞歌合』も数種伝わり,これらにより行事の様子を立体的に復元できる。本記は,『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(令和4年3月刊)に全文が活字化されている。
(陵墓課)
淡い緑色のこの勾玉は,どこで作られたものであろうか。
優美な曲線で構成される「勾玉」は,玉の中でも際立つ存在である。勾玉にはヒスイや碧玉(へきぎょく)といった美しい石を素材としているものも多く,使う人々の好みが表れているともいえる。今回紹介する勾玉はガラスで作られたものであり,頭部の先端付近を欠いていることが惜しまれるが,透きとおる淡い緑色はヒスイなどとはまた違った美しさを放っている。
細かなガラス素材を鋳型(いがた)の中で溶かして作ったと考えられ,緑色に発色しているのは銅を混ぜているからであると思われる。全長が5.4㎝あり,ガラス製のものでこのような大きな勾玉は珍しい。
本品が出土した西塚古墳は,福井県若狭町の脇袋(わきぶくろ)古墳群に所在する前方後円墳である。同古墳や周辺の古墳からは朝鮮半島や北部九州と関わりのある遺構や遺物が多く発見されている。このような考古学的な状況と日本海に面しているという地理的状況から,この地域の豪族(ごうぞく)は,朝鮮半島をはじめとする大陸との交渉役を担っていたものと考えられている。西塚古墳に葬られた人物もそうした役割を果たしていたと考えられ,本品は,そのような被葬者の活動の中で入手されたものである可能性がある。
当時の日本列島ではガラス素材からガラス製品を作ることは行われているが,ガラスそのものの生産は行われていない。本品は,輸入されたガラス素材を用いて列島内で作られたのか,あるいは朝鮮半島で作られたものが輸入されたのか。興味は尽きないが,この勾玉がどこで作られたかの結論は今後の調査研究に委ねられている。
(図書寮文庫)
本記は,八条宮智忠親王(としただ,1619-62)御筆の記録で,寛永16年10月5日に後水尾上皇によって催された仙洞歌合の記録である。『道房公記』にも記録された仙洞歌合の記録の一つ。内容は,親王御自身の御詠草を含む詠歌や,難陳(なんちん,ディベート)などの歌合の中身には触れておらず,歌合における後水尾上皇以下各参加者の装束・役割分担・歌合の進行の様子を書き留めるだけの簡略な記述に終始しており,むしろのちに故実の参考とするためのものとも考えられる。これは,『道房公記』の記事にあるとおり,当時21歳と若年であるため難陳への参加を免除されたこと,また親王御自身が詠歌・難陳よりも行事自体に強い関心を持っておられたことによるものであろうか。簡潔に過ぎるとはいえ,『道房公記』では,歌合後,場所を改めて酒が出されたことしか記述しないのに対し,本記ではその宴会場が「本(もと)ノ御座敷」であったことや,饅頭が出たことなども記録しており,記事はわずか4丁分ではあるが,『道房公記』には記録されていない記事もあり,注目されてよい。
(陵墓課)
光を反射してキラキラと輝く耳飾りは,その美しさと珍しさで人々の注目を集めたに違いない。
本品は,金無垢(きんむく)からなる贅沢(ぜいたく)な作りの耳飾りである。本来は孔が開いている方を上にして,耳たぶに装着した耳環(じかん)から環(わ)や鎖(くさり)を介してぶら下げられていた。本品のようなアクセサリーの先端にぶら下げられている部分を「垂下飾(すいかしょく)」と呼ぶ。写真左側の個体で縦方向の長さ3.9㎝。
水滴(すいてき)を上下逆にしたようなかたちで,本体中央にはコバルトブルーのガラス玉がはめ込まれている。縁(ふち)には「覆輪(ふくりん)」と呼ばれる別のパーツがかぶせられており,丁寧に刻み目が施されている。すぼまった側が本来の下端となるが,左側の個体では,2つのドーナツ状パーツと4つの粒状パーツからなる飾りが付く。右側の個体でこの飾りが失われているのは残念だが,そのおかげで下端の飾りが本体と覆輪とを挟み込むように取り付けられていることがよくわかる。
左側個体下端の飾りに見られるような,金でできた粒状のパーツを「金粒(きんりゅう)」と呼ぶが,金粒が用いられている耳飾りは,朝鮮半島西部の「百済(くだら・ペクチェ)」の墳墓からも出土している。その一方,ガラス玉がはめ込まれた垂下飾は百済では確認されておらず,本品には百済のものとは異なるアレンジが加えられていると見られる。こうした状況から,本品は,百済からの渡来人の手によって,日本列島内で製作された可能性が考えられる。
本品は,古墳時代における貴金属製アクセサリーのうち初期のものの一つに数えられる。古墳時代の金工文化をしのばせる逸品であると同時に,その時代の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(図書寮文庫)
手鑑(てかがみ)とは筆跡(手)の見本(鑑)帖の意。奈良時代の経典に始まり,平安時代以降の和歌や書状など様々な断簡(古筆切,こひつぎれ,切〈きれ〉とも称す)を貼った手鑑は,江戸時代に愛好された。
断簡の脇の紙片を極札(きわめふだ)といい,極札には筆者名と冒頭数文字が書かれ,古筆鑑定家の印があるのを通例とする。筆者名は伝承筆者(古来より伝えられている筆者)であり,同一筆者と鑑定されているものは同じ特徴を有することが知られている。切は天皇から身分・時代の順で貼られた。
本書の見返しは狩野探信(かのうたんしん,1785-1836)画で,折帖(おりじょう,アルバム)じたいの成立は探信の没年を下限とするが,剥離痕が示すように切はその後も貼り替えられ現在の形になった。
掲出画像は本書冒頭。いずれも伝承筆者を聖武天皇とする経切(きょうぎれ)であるが,特に中央の切は荼毘紙(だびし,釈迦の骨粉―実際は香木の粉末―をすき込んだ上質な紙)に『賢愚経』(けんぐきょう)を記した「大聖武」(おおじょうむ)と呼ばれるもの。大聖武の有無が手鑑の格を左右した。
本書はもと御物で平成元年に書陵部に移管された。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府茨木市に所在する継体天皇三嶋藍野陵から出土した朝顔形埴輪である。口縁部(こうえんぶ)の直径約65cm。
朝顔形埴輪とは,器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり,その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となるが,本資料ではその円筒部分の大半が失われている。
朝顔形埴輪は,円筒埴輪とともに墳丘の平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成するものであり,埴輪が出現して間もないころからその終焉(しゅうえん)まで作り続けられた一般的な種類の埴輪といえる。壺はもともと飲食物の容器であり,それを器台にのせた状態を模した朝顔形埴輪は,円筒埴輪と同様に飲食物をささげる行為の象徴であったと考えられる。
なお,本資料では壺部分の肩部外面にイチョウの葉に似た線刻を観察することができる。タイトルのリンク先に線刻の画像を掲載しているので御覧いただきたい。
(図書寮文庫)
桂宮初代智仁親王(としひと,1579-1629)が慶長13年(1608)・17年,元和5年(1619)・7年,寛永元年(1624)・2年・5年に旅先などで詠じた和歌や発句,狂歌を書き付けた資料。
掲出画像は,親王による江戸下向の際の富士山詠。親王は生涯で二度,元和3年と寛永2年に当時の将軍であった徳川秀忠・家光へ挨拶のため江戸へ下向している。これは二度目の時の詠である。なお,この下向を親王自身が記録した『江戸道中日記』(桂・42)が残っている。これによれば寛永2年3月20日条にこの富士山詠が記されている。「ふしにて から人の歌に有ともミせはやなまことのふしの山のすかたを」「発句 ふしのねもきぬもてつゝむ霞哉」。和歌では富士山の雄大な姿は実見しなければ実感できないであろうとし,発句では春霞がかかった優美な富士山をまるで衣で包んだようだとして面白く詠じている。なお,この二首を含む下向の際に詠じた一連の句を「将軍家」へ見せたことが『江戸道すがらの歌』(457・177)の奥書によって知れる。
ふだん遠出をすることのない親王が,道中の景勝地で和歌を詠じ,時には興に乗って狂歌を詠んだことなどから,二週間程度に及ぶ江戸への長旅を楽しんだことが本資料からはうかがえる。