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(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は、東山天皇(第113代)の第6皇子で、閑院宮初代、直仁親王(なおひと、1704-53)詠、御筆の和歌懐紙である。本懐紙のように、男性の和歌懐紙は、歌題、署名、歌の順に書き、歌は3行と3文字にかけて書くのが通常の書式である。閑院宮家旧蔵資料であるが、初代当主御直筆の懐紙として掛軸に表装され、大切に伝えられたのであろう。
本資料に記された歌題や署名からは和歌会の年次を探ることはできなかったが、その後の調査で、この時に詠まれた懐紙原本の一群が発見された。寛延3年(1750)3月9日に有栖川宮家で催された和歌会であり、参会者34名の懐紙の中に直仁親王が詠まれた和歌懐紙(有栖・19のうち)も存在したことから、本懐紙は清書ではなく下書き、あるいは控えと位置づけられるに至った。双方の懐紙を比較したところ、ほぼ同一の書きぶりとなっており、清書に際しては師匠のお手本が存在した可能性もあろう。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
本資料は寛永16年(1639)10月5日に行われた歌合で、和歌奉行(世話役)を務めた勧修寺経広(かじゅうじつねひろ、1606-88)による記録の写しである。本歌合は後水尾上皇(第108代)によって仙洞で催された。本歌合以前に行われた会は天正8年(1580)の天正内裏歌合まで遡り、そのため歌合の経験があったのは参加者24名のうち西洞院時慶(にしのとういんときよし、1552-1639)1名のみであった。久しぶりの会のため提出する懐紙の封をする作法が分からなくなっている様子が、参加者の一人であった九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の『道房公記』寛永16年記(九・5119のうち)からうかがえる。本資料では歌合に出詠された和歌と詠作者名が記されないのに対して、今までの記録に詳述されていない事前の準備(催行日時および歌題の通知など)や当日の式次第などが中心となって記録されている。これは、経広が具体的な先例が残されていないために苦慮したことからあえて記したものと推測される。本歌合での和歌などについては『寛永十六年仙洞歌合』(鷹・357のうち)などによっても知ることはできるが、本資料以外では奉行という立場から記されている資料は存在しないため貴重な資料であると言えよう。
(図書寮文庫)
鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(図書寮文庫)
本資料は、江戸時代後期の天保12年(1841)閏正月27日、前年11月に崩御した太上天皇(御名は兼仁(ともひと)、1771-1840)に「光格天皇」の称号が贈られた際の詔書。年月日部分のうち、日付の「廿七」は仁孝天皇(1800-46)の自筆で御画日(ごかくじつ)という。
「光格」は生前の功績を讃(たた)える美称で諡号(しごう)に該当する。諡号は9世紀の光孝天皇(830-87)を最後に、一部の例外を除き贈られなくなり、代わりに御在所の名称などを贈る追号(ついごう)が一般的となっていた。
さらに「天皇」号も10世紀の村上天皇(926-67)が最後で、以後は「〇〇院」などの院号が贈られることが長く続いていた。そのため、「光格天皇」号は、「諡号+天皇号」の組み合わせとしては約950年ぶりの復活であった。院号は幕府の将軍から庶民まで使用されていたことから、天皇号の再興(さいこう)は画期的なことといえた。
これは、光格天皇が約40年に及ぶ在位期間中に、焼失した京都御所を平安時代の規模で再建させたことを始め、長期間中断していた朝廷儀式の再興や、簡略化されていた儀式の古い形式への復古(ふっこ)に尽力したことが高く評価されたためであった。
(図書寮文庫)
嘉永7年・安政元年(1854)10月、江戸幕府から下田に来航したロシア使節プチャーチン(1803-83)の応接を命じられた、勘定奉行兼海防掛川路聖謨(かわじとしあきら、1801-68)の日記。同月17日から安政2年4月29日までの出来事を記述する。
掲出箇所は、長楽寺において日露和親条約の調印式が行われた、安政元年12月21日条。この日は、本来ならば日本側から豪勢な料理を提供し、満艦飾(まんかんしょく)のロシア軍艦から祝砲が撃たれるはずであったが、11月4日に発生した大地震と津波によって下田は壊滅的被害を受け、ロシア軍艦も沈没したため、いずれも実施できず、わずかに酒三献と鯛を台の上に積み上げて供したと、尋常ならざる状況下で調印式が行われたことを日記は伝えている。
日米和親条約(同年3月)・同附録(5月)、日英約定(8月)に続いて調印された日露和親条約について、日記には「日本魯西亜(ロシア)永世之会盟とも可申(申すべし)」とあることから、川路がもはや鎖国への回帰は困難であると捉えていたことがうかがわれよう。日記にはこのほかにも、川路が「布恬廷(プチャーチン)はいかにも豪傑也」(安政元年12月14日条)と評価していたことなどが記述されていて興味深い。
(図書寮文庫)
安政4年(1857)、アメリカから通商条約の締結を要求された江戸幕府は、世界情勢の変化を考慮して許可することを決定し、その経緯を朝廷に報告した。さらに勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得た後に条約を締結することとし、翌5年2月、勅許を求めるために派遣された老中(ろうじゅう)が京都に到着した。
本資料は、その直前に当たる安政5年正月17日、孝明天皇(1831-66)から関白九条尚忠(ひさただ、1798-1871)に宛てて書かれた天皇自筆の書状。通商条約に「日本国中不服」では「大騒動」が起きてしまうと憂慮した内容で、“自分の代でそのようになっては後々までの恥の恥となるであろうし、伊勢神宮を始めとする神々にはまことに恐縮である。さらに歴代天皇に対する「不孝」となり、自分は身の置きどころがない”と苦しい心中が記載されている。
結局、条約を勅許するには公家のみならず、御三家(水戸藩・尾張藩・和歌山藩)を始めとする全国の諸大名からの広い合意が必要と判断した孝明天皇は、条約の勅許を認めなかった。それ以降、条約勅許問題は幕末政治の大きな争点となっており、本資料は孝明天皇の意思がうかがえる貴重なものである。
(図書寮文庫)
鳩杖(はとづえ・きゅうじょう)とは、主に長寿を祝う品として贈られた、鳩の装飾が施された杖である。なかでも皇室から老齢の重臣等に贈られたものは、明治以降に宮中杖と呼ばれた。意匠に鳩が選ばれた理由は、餌を食べても喉を詰まらせない鳥であることから健康祈願を託したなど、諸説あり定かでない。
中国では、漢の時代、高齢者や老臣に対し鳩杖を贈る制度があった。日本においても、平安時代には鳩杖という言葉が、鎌倉時代には老臣への鳩杖下賜が文献に確認される。江戸時代半ば以降は現物ではなく、宮中での使用許可と製作料を与えるかたちが通例となった。現行憲法下では、吉田茂はじめ4名に現物が贈られている。
宮内省図書寮編修課は昭和13年(1938)から宮中年中行事調査の一環として鳩杖・宮中杖の調査を行った。本写真帳はその参考資料とみられ、「現行宮中年中行事調査部報告9 宮中杖」の附属写真帳「鳩杖聚成(しゅうせい)」と内容が一致する。ただし、本資料では裏書きに「昭和九」と確認でき、写真自体は調査開始以前の撮影と思われる。
掲出箇所は、前記報告書の「子爵萩原家所蔵員光(かずみつ)ノ鳩杖」に該当する写真である。萩原員光(1821-1902)は幕末・明治の公家・華族。明治34年(1901)に「老年ニ付特旨ヲ以テ」杖の使用を許され、併せて贈られた杖料で本杖を製作した。本体は木製漆塗り(一部銀製)で長さは約1m10cm、鳩形は純銀製で約4cmとある。
(宮内公文書館)
明治天皇の利根川御渡船の様子を描いた絵図の写し。明治9年(1876)6月4日、明治天皇は巡幸の途中、栗橋宿(現久喜市)の池田鴨平宅で御小休になった。栗橋からその先の茨城県へ向かう間には利根川があり、明治天皇は御座船に乗って渡られている。この御渡船中に、明治天皇は利根川の鯉漁(こいりょう)を御覧になった。白衣を身にまとい潜水した漁夫数人がこぞって鯉を抱きかかえて捕獲したとされ、計48尾に上ったという。
史料は、昭和3年(1928)に宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のため、池田家から借用して作成されたものである。絵図下部に池田鴨平宅、上部が茨城県の中田駅、中央にある利根川の堤と明治天皇の御座船が描かれている。画賛(がさん)には利根川御渡船の経緯と、この時供奉(ぐぶ)した宮内省皇学御用掛近藤芳樹が詠んだ次の歌2首が記されている。「龍の門登らで老し身にも猶/こひねがはるゝ/君の千代かな」「利根川の淀みに引し/網の目に洩ぬ恵みの/深さをぞ思ふ」。なお、近藤の歌については「十府の菅薦」と校合し、適宜濁点を付した。
(宮内公文書館)
宮内省では、巡幸(じゅんこう)中の現地での出来事などを記録した供奉(ぐぶ)日記を作成している。巡幸とは天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることで、特に明治前期のものを総称して「六大巡幸」と呼ばれ、明治天皇は、明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり日本各地を巡幸になった。史料は、明治9年に東北・北海道へ巡幸された際の宮内省の巡幸供奉日記のうち、明治9年6月3日条の記事で、行幸啓に関する公文書がまとめられている「幸啓録」に収められている。
史料の記事は、巡幸の途中で埼玉県東部を通られた時のものである。明治9年6月3日、明治天皇は、埼玉県令白根多助(しらねたすけ)の進言により、草加駅(現草加市)と大沢駅(現越谷市)の間にある蒲生村(現越谷市)にてしばらく馬車を停め、挿秧(そうおう、田植え)を御覧になっている。同地では、200名ほどのたすき掛けの農夫による田植えの光景が見られたという。また、田植え御覧のことは各新聞社にも発表され、多くの人びとにも知られることとなった。六大巡幸で立ち寄られた各地では、このように明治天皇が自らその土地の風景や地域の生業(せいぎょう)を視察された。
(宮内公文書館)
埼玉県下の江戸川筋御猟場は、明治16年(1883)の設置後、史料が作成された明治24年まで「人民苦情」もなく運営を続けてきた。しかし、千葉県などに設置された他の御猟場からは、農作物の被害などが多く、解除願いを出されるなど、宮内省は「時勢之変遷ニ随ヒ猶数十年之後迄」御猟場を継続するためには、「今日より粗計画無之テハ難相成」と考えていた。そこで、宮内省は埼玉県と御猟場を区域とする町村との間に契約を結ばせ、手当金を支払うことを決定する。史料は、その件に関して主猟局長であった山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)から埼玉県知事の久保田貫一(くぼたかんいち、1850-1942)へ宛てた照会文書の決裁である。埼玉県との調整の末、向こう15年間の契約で1反歩(約1,000平方メートル)あたり5厘の手当金が出されることになった。この後、契約の切れる明治39年に御猟場のある町村では、契約の更新か、打ち切りかをめぐって「御猟場問題」が持ち上がることになる。
(宮内公文書館)
宮内省主猟局長を務めた山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)の日記の写本。山口は明治天皇からの内命を受けて狩猟をするため、あるいは御猟場を見回るために、しばしば各地の御猟場を訪れている。明治25年(1892)2月1日からは、出張を命じられ千葉・埼玉の両県にまたがる江戸川筋御猟場を訪ねた。千葉県側から御猟場に入った山口は、2月3日より埼玉県側に移り、翌4日には宝珠花村(ほうしゅばなむら、現春日部市)に至る。史料は、4日の記事である。宝珠花村の堤上から雁猟(がんりょう)を見ていた山口は、見回(猟師)に雁猟の方法を指示すると、14羽の雁を猟獲したという。その日は午後から降雪のため、宝珠花村の中島市兵衛宅に宿泊し、雁猟をしていた見回(猟師)らを招いて晩酌をし、見回(猟師)らは皆、的確な山口の指示を賞賛したことが述べられている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
御猟場とは、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治17年(1884)、宮内省内に御猟場掛が設置され、明治21年には主猟局、同41年には主猟寮と改められ、全国の御猟場を管理していった。史料は明治16年6月に東京府(無色)・千葉県(朱色)・埼玉県(黄色)にわたる広範な範囲に設定された江戸川筋御猟場の範囲を示すものである。この時、習志野原(千葉県)、連光寺村(神奈川県、現在の東京都)、千波湖(茨城県)の3か所もあわせて御猟場に設定されている。江戸川筋御猟場では雁や鴨、鷭(ばん)、鷺、雉子(きじ)、千鳥などを対象に鳥猟が行われた。
東側はおよそ江戸川を、西側は陸羽街道(日光街道)を境界として、南側は東京湾まで範囲(史料中の朱線の内側)がおよんでいることがわかる。さらに、明治16年9月には東京府全域が削除され、明治17年6月には西側の境界が陸羽街道から岩槻街道へと広げられるなど、区域が改められた。この後、江戸川筋御猟場は縮小と拡大を繰り返しながらも存続し、昭和26年(1951)に廃止された。
(宮内公文書館)
山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)は水戸藩の出身で、明治期に長く侍従を務め、御猟場掛長、主猟局長、主殿(とのも)頭などを歴任した。史料は山口正定の日記で、大正9年(1920)に臨時帝室編修局が写したものである。宮内公文書館には、明治9年(1876)から亡くなる明治35年までの日記が断続的に残されている。
史料は、明治17年4月21日から25日に至る記事である。この時、山口は御猟場掛長として、江戸川筋御猟場の区域内を巡回している。記事を見ると、21日には巡回中に藤塚村(現在の春日部市)の高橋豊吉宅で鯉魚の饗宴があり、夜は幸手宿(現在の幸手市)の田口清平宅に宿泊している。22日には行幸堤(みゆきづつみ、現在の幸手市)を訪れ、土手に咲く満開の菜花を見て詩を詠んでいる。22日から24日までは西宝珠花村(にしほうしゅばな、現在の春日部市)の中島市平宅に宿泊しており、依頼を受けて揮毫をしたり、雉子(きじ)猟をしたりするなど、地域の人びとと交流している。山口にとって、御猟場の巡回は、区域内を見回るだけでなく、御猟場の運営に携わる地域の人びととの交流も目的にあったことがうかがえる。
(宮内公文書館)
御猟場は多くの場合、官有地ではなく民有地(民間の土地)に設定された。そのため宮内省では、各御猟場に監守長を置き、その下に監守を置いて御猟場の管理・運営にあたらせていた。監守の業務は、猟具の管理や担当する区域内の見回りなど多岐にわたるが、御猟場の境界に設置された標木の管理もその一つである。江戸川筋御猟場も多くの御猟場と同様に、ほとんどが民有地に設定されていた。そのため、御猟場の境界がわかりにくく、御猟場設置の当初から標木が設置されており、御猟場の縮小や拡大があるたびに、監守は標木の差し替えを行っていた。
史料はこうした標木のうち、明治32年(1899)に定められた江戸川筋御猟場に設置する標木の英文表記である。ここでは、“IMPERIAL PRESERVES”すなわち皇室の御猟場(直訳すると皇室の保護区)において鳥や動物を撃ったり、罠にかけたりすることを固く禁じている。こうした英文の標木が設置されたことは、明治32年当時において江戸川筋御猟場の利用者に日本人のみならず、一定程度の外国人もいたことを示している。