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(図書寮文庫)
平安時代より行われた,宮中の年中行事である追儺の儀式の順序を記した図書。追儺は中国から伝わった疫病を払う儀式で,中国では季節の変わり目に,日本では大晦日の夜(午後8時前後)に行われていた。追儺は社寺や民間でも行われるようになり,室町時代になると節分の豆まきと結びつき現在のような形となったとされる。画像は,疫病の原因となる疫鬼(えきき)という鬼の姿。鬼は病を引き起こすものという認識があったことが分かる。本書は江戸時代末期に書写されたもの。
(図書寮文庫)
鎌倉時代に成立した説話集。「鬼に癭(こぶ)とらるゝ事」(こぶ取り爺さん)などの昔話から仏教的な説話まで,幅広い内容を収めている。寛永年間(1624-44)に印刷された古活字による版本。画像は仏道修行している者が百鬼夜行に遭遇した場面。『百鬼夜行絵巻物』では絵画でその様が描かれるが,本書では「ちかくて見れば,目一つきたりなどさまざまなり。人にもあらず,あさましき物どもなりけり。あるひはつのおひたり」として,文章で百鬼の様子が詳しく描写されている。
(図書寮文庫)
橘成季(たちばなのなりすえ,生没年未詳)が建長6年(1254)にまとめた説話集。本書は江戸時代初期に写された本である。画像は,漢詩に長けていた菅原文時(ふみとき,899-981)の家の前を鬼神が通りがかったところ,その漢詩の才能に敬意を表して拝礼をして通ったという夢をある人が見た話。鬼が野蛮で心がない存在ではなく,人間と同じく漢詩を敬う心を持っていたということが描かれている。
(図書寮文庫)
元弘元年(1331)頃に成立した,兼好法師(1283-1352)による随筆。本書は室町時代中期に書写された本である。画像は,伊勢国(三重県)から鬼女が京都に連れてこられたという噂に人々が惑わされる話。結局噂だけで鬼女を見た者はいないが,話の結末では鬼女の噂が立ったのはその頃に流行った病の前兆であるとして,両者を結びつける見方をする者がいたことが語られる。中世において病は鬼が原因であるということが,このような話からも窺える。
(図書寮文庫)
「一寸法師」は『おとぎ草紙』に収められている物語である。他に「浦島太郎」や「ものぐさ太郎」といった有名な昔話なども収めている。『おとぎ草紙』は室町時代から江戸時代初期にかけて作られた。版本といって木版による印刷で,江戸時代の中期頃のもの。画像は「一寸法師」の一場面で,姫に襲いかかってきた鬼を一寸法師が追い払ったところ。一寸法師のかたわらには打出小槌が描かれている。この物語の鬼は乱暴を働くが,打出小槌という特別な宝物をもたらしてもいる。
(図書寮文庫)
江戸時代の中期頃に写された百鬼夜行の絵巻物。原本は室町時代に成立したもの。百鬼夜行とは,夜中に様々な妖怪が列をなして騒ぎ歩く様をいう。百鬼夜行は実在するものとして信じられており,百鬼夜行が行われるとされる日には外出が禁じられていた。画像は鬼が唐櫃(道具入れ)をこじ開けようとしている場面。この他にも古道具が妖怪となったものなど,多種多様な妖怪がいきいきと描かれている。
(宮内公文書館)
横浜の人々による憲法発布を祝う祝詞。明治22年(1889)2月11日の憲法発布式典に合わせて,横浜では本町(ほんちょう)町会所で発布を祝う式典が催された。資料は高島嘉右衛門(かえもん)ら6人が,宮内省へ送った憲法発布と明治天皇の偉業を讃える祝詞である。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)の憲法発布式に際しては,居留外国人で構成される横浜商法会議所(会頭ジョン・トーマス)から祝文が送られた。憲法を発布した明治天皇の偉業を讃えるとともに,諸外国も天皇を信用するものであると記している。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)8月12日,横浜市雲井町(現・中区長者町5丁目の一部)より出火し,横浜の歓楽街をほとんど焼いた「雲井町大火」の火災状況図。図のうち赤い部分が焼失場所,青い部分が罹災者(りさいしゃ)避難場所(主に学校等)となっている。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)9月28日の暴風雨による横浜港被害写真。横浜市真砂町(まさごちょう)に写真館を構えた鈴木真一による撮影。資料は4枚の写真で構成され,写真は「横浜港北水堤之部甲」と題されたもの。横浜港灯台までの堤防が崩壊するなど,甚大な被害の様子がわかる。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)10月,横浜のペスト病発生に伴う予防処置に関する緊急勅令の閣議案。明治天皇の御覧後,枢密院で発布が撤回されたため,御手許(おてもと)に残された。「明治天皇御手許書類」に内閣総理大臣以下の花押の入った閣議案が残る例は珍しい。
(宮内公文書館)
明治38年(1905)10月の観艦式における艦艇の配置図。この観艦式は,日露戦争終結直後に横浜沖で開催された。大きく六つの艦列が朱で記されており,165隻の艦艇が参加していることがわかる。明治天皇は巡洋艦「浅間」に乗艦され観艦式に臨まれた。
(図書寮文庫)
本書は,安政5年(1858)12月11日,高杉晋作(1839-67)らが師の吉田松陰(1830-59)に宛てた血判状。連署の高杉晋作・久坂玄瑞ら5人は松陰の門下生で,本文執筆は久坂とされる。高杉らは師松陰の過激な計画を思い止めようと血判状をもって諫止したのである。師を思う弟子たちの思いが込められた血判状による諫止ではあったが,やがて松陰は安政の大獄によりその短い生涯を閉じるのである。木戸家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,薩摩藩士西郷吉之助(隆盛,1827-77)から木戸準一郞(孝允,1833-77)に宛てた書状で,閏4月6日とあるとことから慶応4年(明治元年,1868)のものと考えられる。東征大総督府参謀であった西郷が木戸に,徳川氏の処分や関東鎮撫策について面会して意見を聞こうと上京を促そうとしたのではないかと想像される内容をもっているが,木戸は10日に大阪を発ち,神戸へ向かったため,西郷は会うことはできなかったことがうかがえる。
(図書寮文庫)
本書は,明治天皇(第122代,1852-1912)宸筆の御手習い並びに御清書である。清書の文字は「梅花」と書かれ,書道師範であった有栖川宮幟仁親王(たかひと)朱筆による加点並びに添削のあとがみられる。また「いろは」は,基礎的な仮名文字習得を目指した手習いであったと思われる。付属の書付けによれば,文久元年(1861)に幟仁親王に下賜されたもので,天皇10歳の宸筆である。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇(第123代,1879-1926)宸筆の「徳感人風動物」六字大幅である。堂々たる筆致で,「徳は人を感ぜしめ,風は物を動かしむ」と読む。風が物を吹き動かすように,君子の徳が人民の心を動かすとの意である。皇位を嗣がれて間もない天皇の,君主としての御決意を示しているように思われる。天皇は漢詩文を好まれ,川田甕江(おうこう)や三島中洲(ちゅうしゅう)に学んでおり,造詣の深さが本幅にも表れている。久邇家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇の皇后であった節子皇后(貞明皇后,1884-1951)が東伏見宮に下賜した色紙である。詞書に「沼津で得た竹の子を贈ったところ,その様が面白いので写生してこちらに贈ってくれた嬉しさに」とあり,東伏見宮妃の周子(かねこ)が竹の子の御礼に写生した絵を贈ったことに対する,皇后からの返礼の御歌と考えられる。御歌は竹の子になぞらえて東伏見宮を寿ぐ内容となっており,また料紙の継色紙は銀泥で鳥や草花が繊細に描かれ,流麗な文字をより華麗なものとしている。東伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書中,藍色の雲紙に書かれているのは,琵琶の撥合という奏法の譜面である。下無(しもむ)は洋楽の音名の「嬰ヘ」に相当する。譜のあとに後伏見天皇(第93代,1288-1336)の宸筆の奥書と花押があり,それによれば,入道相国(西園寺実兼)が書いて進上してきた撥合(かきあわせ)の譜を,天皇御自身が練習のため宸筆で書写したことがわかる。伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,1377-1433)宸筆の書状である。年未詳ながら,宛所(宛先)はないが,書止に「謹言」と書いているところ,天皇周辺の然るべき御身分の方宛てに書かれたものである可能性がある。内容は,短冊や詠進に関することが記されており和歌御会などに関するものと推察される。