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(選択を解除)(図書寮文庫)
平安時代後期の関白藤原忠通(ただみち,1097-1164)の自筆日記。父忠実(ただざね,1078-1162)や弟頼長(よりなが,1120-56)との対立は,保元の乱(1156)の原因となった。晩年出家し法性寺に住んだことから,法性寺殿とも称される。文芸に優れたほか能書家としても知られ,その書風は法性寺流として鎌倉時代を通じて重んじられた。端正な書風は当日記からも窺える。画像は天治2年(1125)9月14日条で,斎王守子内親王(1111頃-56)の伊勢群行当日の記事である。
(図書寮文庫)
平安時代初期に成立した勅撰の儀式書。上中下の3巻よりなるが,当部所蔵書は中巻のみの1巻。表紙・本文第1紙は九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の筆により,本文第2紙以降は鎌倉時代末期の書写とみられる。
画像は冒頭の奏成選短冊式(じょうせんたんざくをそうすしき)の部分で,2月に行われる列見(れけん,位階の昇進の決まった官人を面接する儀式)に続いて,位階が昇進する官人の名簿等を奏上する儀式。ちなみに本書では4月11日となっているが,「本朝月令」(ほんちょうがつりょう)に引用された「貞観式」(じょうがんしき)の条文には同儀式は4月7日となっており,「貞観式」において式日が変更されたことが分かる。
(図書寮文庫)
10世紀前半の成立と考えられている惟宗公方(これむねのきんかた)の撰による現存最古の年中行事書。本書は建武3年(1336)の九条道教(くじょうみちのり)の一見奥書(一覧したことを記す奥書)を持つ現存最古写本であり,4月から6月までの行事を収める。
画像は5月6日の競馬(くらべうま)の箇所で,5月5日,6日の両日に騎射(うまゆみ)とともに行われる。本書の特徴は様々な典籍の引用であるが,画像に「弘仁馬寮式」「貞観馬寮式」「貞観内匠式」とあるのは,「弘仁式」(弘仁年間〈810-24〉に編纂,天長7年〈830〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮の式や,「貞観式」(「弘仁式」を訂正,増補し,貞観13年〈871〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮,内匠寮の式の条文の一部である。「弘仁式」や「貞観式」は典籍としては現存しないので,「本朝月令」に引用されたこれらの条文は,「弘仁式」や「貞観式」の内容を知るうえで貴重な史料となっている。
(図書寮文庫)
大江匡房(おおえのまさふさ,1041-1111)撰による朝儀・公事の次第を詳述した書。後西天皇宸筆とされる「行類抄」(ぎょうるいしょう)との外題があるが,内容より「江家次第」巻5とみられ,本来,東山御文庫に伝来する同書と一巻をなしていた。
画像は2月11日の列見の部分。東山御文庫本はこの巻5の冒頭を欠き,釈奠(せきてん,孔子及びその弟子をまつる儒教の儀礼)の途中から春日祭の途中までを収めているが,本書はそれに続く部分で,春日祭の途中から季御読経(きのみどきょう,季毎に天皇の安寧と国家の安泰を祈願する仏事)までを収めている。両者を合わせることにより「江家次第」巻5をほぼ網羅することとなる。
(図書寮文庫)
平安時代から清涼殿には,儀式や祭祀等が書き連ねてあった衝立障子が備え付けられていた。本書はそれを書写したものである。甘露寺親長(かんろじちかなが,1424-1500)の奥書を持つ。「百官唐名」(ひゃっかんとうめい,日本の官職名に唐の官職名をあてたもの)と合綴されている。
画像は5月の年中行事の部分で,「平家本」「中家本」といった諸家の本による注記が書き込まれていたり,色分けされた読み方が見えている。これらは本奥書によれば,諸家による読み方毎に色分けしたものであり,行事名の正確な読み方が重要視されていたことが分かる。現在の清涼殿の年中行事障子については,「《京都》御所と離宮の栞(其の三)」(PDF:http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori3.pdf)を参照。
(図書寮文庫)
「年中行事御障子文」をもとに,中原師遠(なかはらもろとお,1070-1130)が新規に行事を加えたり,注記を施した年中行事書で,一般に「師遠年中行事」と称されている。鎌倉時代初期の書写本で,対応する項目の裏書がある。
画像は5月の箇所。年中行事御障子文と比較してみると,項目の増減等が若干あるもののおおよそ同じであることが分かる。小字が書かれたものが新たに書き加えられた行事である。中原家は大外記(だいげき,書類の上奏や儀式等を執り行う実務官人の上位の官)を世襲する家で,師遠も大外記を務めた。
(図書寮文庫)
平安時代末期に後白河法皇(1127-92)の命により朝廷における年中行事の場面を描いた絵巻。もとは60巻と伝えられている。江戸中期写。
画像は巻14の賀茂斎院御禊東河儀(かもさいいんごけいとうがのぎ)の部分で,賀茂祭に際して,賀茂川の西岸の御禊所で賀茂斎王(さいおう,賀茂大神に奉仕する未婚の内親王または女王)が禊をされる儀式の場面である。本書は一般に知られている禁裏に伝えられた本を住吉如慶(すみよしじょけい,1599-1670)が書写した16巻本とは別系統の20巻本である。
(図書寮文庫)
『新儀式』は,平安時代に編纂された編纂者未詳の儀式書。本来は6巻あったとされているが,現存するのは巻4,5の2巻のみ。本書には天皇御賀に関わる儀式の次第を収録している。本書は,現存する写本の中で最も古い鎌倉時代に書写されたものである。天皇御賀の儀式は,既に聖武天皇(第45代,701-56,在位724-49)の時代にあったとされており,早い時期より宮廷の中で一般化していたと考えられる。
(図書寮文庫)
本和歌集は,八代集の第3番目の勅撰集。花山天皇(第65代,968-1008,在位984-86)の編によるものとされ,11世紀の初めに成立した。本書には,四季・賀・雑等の部立にわたって30首以上の御賀和歌が入集されており,他の勅撰集よりその数が多いのが特徴である。画像は,承平4年(934)3月26日に朱雀天皇(第61代,923-52,在位930-46)によって催された皇太后藤原穏子(おんし)五十の御賀に際して紀文幹(きのふみもと)が詠んだ屏風和歌「春霞たてるを見れば荒玉の年は山よりこゆるなりけり」。穏子は醍醐天皇(第60代,885-930,在位897-930)の后で五条后(ごじょうのきさい)と称された。なお,本書は,鎌倉時代の正応3年(1290)に書写された拾遺和歌集古写本の一つとして知られている。
(図書寮文庫)
本書は,天皇母后の御賀の記事を編纂した部類記で,清和天皇(第56代,850-80,在位858-76)母后藤原明子(あきらけいこ)四十,五十御賀のほか,母后四方の御賀,並びに藤原道長室源倫子(りんし)・藤原師通(もろみち)室藤原全子(またこ)の御賀の記事を載せている。本書は南北朝時代に書写された現存最古の写本。画像は藤原明子四十御賀の記事で,貞観13年(871)12月5日~9日のご長寿を祈願して行われた修法等の記録。明子は藤原良房(よしふさ)の娘で文徳天皇(第55代,827-58,在位850-58)の女御となり,のち染殿后(そめどののきさい)と称された。
(図書寮文庫)
在原業平(ありわらのなりひら,825-80)とされる「昔男」からはじまる物語。本書は室町中期に写されたもの。画像は,男が「東下り」をする道中に,富士山を見て夏であるのに雪が降り積もる様を「ときしらぬ山はふじのねいつとてかかのこまだらに雪のふるらん」と和歌に詠じた場面。
(図書寮文庫)
延喜5年(905)に成立した初めての勅撰和歌集。本書は享禄2年(1529)に三条西実隆(さんじょうにしさねたか,1455-1537)が書写をした。画像のうち,富士山が詠まれた和歌は「ふじのねのならぬ思にもえはもえ神だにけたぬむなし煙を」。富士山は和歌の世界では,実景よりも恋の歌に多く詠じられた。また,噴煙の有無にかかわらず煙を立てる姿が詠まれた。
(図書寮文庫)
平安時代中期から人々に愛され続けている和歌と漢詩文のアンソロジー。和歌は1首,漢詩文は対句や四六駢儷文(しろくべんれいぶん)の秀句を抜き出した形で書かれている。とくに漢詩句は朗詠されたり,文章の手本にされた。画像は,藤原為家筆と伝える鎌倉時代の写しで,冒頭は,花の題でおさめられた在原業平の歌「よの中にたえてさくらのなかりせばはるの心はのどけからまし」。
(図書寮文庫)
本書は,『令義解』(りょうのぎげ,養老律令の注釈書)より神祇の法令にかかわる部分を抄出したもの。江戸時代に書写された写本だが,伊勢神宮の祭主(さいしゅ)をつとめた藤波家に伝えられたもの。祈年祭についての最古の文献である『令義解』の内容を伝える貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代の仁和元年(885)に関白藤原基経(もとつね)から光孝天皇に献上された,年中行事の項目を記した『年中行事御障子文』(衝立に書かれた行事一覧表)を,江戸時代に抄出したものと考えられる資料。2月の記事に祈年祭の項目がみえ,平安時代には既に宮中の年中行事として認識されていたことがわかる。
(図書寮文庫)
古代の法典『延喜式』(えんぎしき)などから祈年祭の記事を抜き出すなどして調査した書物。江戸時代末期に成立したものと考えられる。祈年祭の歴史的変遷を知る手がかりとなる資料で,江戸時代の知識人にとっても古い時代の祈年祭が深い関心の対象であったことがわかる。