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鎌倉時代に成立した説話集。「鬼に癭(こぶ)とらるゝ事」(こぶ取り爺さん)などの昔話から仏教的な説話まで,幅広い内容を収めている。寛永年間(1624-44)に印刷された古活字による版本。画像は仏道修行している者が百鬼夜行に遭遇した場面。『百鬼夜行絵巻物』では絵画でその様が描かれるが,本書では「ちかくて見れば,目一つきたりなどさまざまなり。人にもあらず,あさましき物どもなりけり。あるひはつのおひたり」として,文章で百鬼の様子が詳しく描写されている。
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橘成季(たちばなのなりすえ,生没年未詳)が建長6年(1254)にまとめた説話集。本書は江戸時代初期に写された本である。画像は,漢詩に長けていた菅原文時(ふみとき,899-981)の家の前を鬼神が通りがかったところ,その漢詩の才能に敬意を表して拝礼をして通ったという夢をある人が見た話。鬼が野蛮で心がない存在ではなく,人間と同じく漢詩を敬う心を持っていたということが描かれている。
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元弘元年(1331)頃に成立した,兼好法師(1283-1352)による随筆。本書は室町時代中期に書写された本である。画像は,伊勢国(三重県)から鬼女が京都に連れてこられたという噂に人々が惑わされる話。結局噂だけで鬼女を見た者はいないが,話の結末では鬼女の噂が立ったのはその頃に流行った病の前兆であるとして,両者を結びつける見方をする者がいたことが語られる。中世において病は鬼が原因であるということが,このような話からも窺える。
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本書中,藍色の雲紙に書かれているのは,琵琶の撥合という奏法の譜面である。下無(しもむ)は洋楽の音名の「嬰ヘ」に相当する。譜のあとに後伏見天皇(第93代,1288-1336)の宸筆の奥書と花押があり,それによれば,入道相国(西園寺実兼)が書いて進上してきた撥合(かきあわせ)の譜を,天皇御自身が練習のため宸筆で書写したことがわかる。伏見宮旧蔵。
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本書は,伏見天皇(第92代,1265-1317)の宸筆御集(御製集)である。能書で知られる伏見天皇であるが,なかでも緩急自在に書かれたこの御集の断簡は「広沢切」と称され特に珍重されている。本書の紙背(裏面)は嘉元5年(徳治2年,1307)の具注暦で,その裏に夏の歌を書写して一巻としている。恐らくは天皇御自身が,御製集編纂のために書写した草稿本と推測される。
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琵琶の3つの秘曲の譜面で,文永4年(1267)と5年に,刑部卿局から後深草上皇(1243-1304)へ3秘曲伝授が行われた際に作成されたもの。譜のあとに「さつけまいらせさふらひぬ」(お授け申し上げました)とみえることから,伝授状と分かる。刑部卿局は本名を藤原博子といい,下級貴族の出身ながら琵琶の名手として宮中に仕えた女性であった。上皇にたてまつる伝授状にふさわしく,上下藍色の雲紙が用いられ,3曲の中でも最秘曲にあたる啄木調(たくぼくちょう)には,金泥の界線が施されている。
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我が国の琵琶のおこりは,遣唐使藤原貞敏(さだとし,807-67)が唐の廉承武(れんしょうぶ)より奏法を学び,その技術を持ち帰ったことに始まるとされる。本系図は,それから鎌倉時代に至るまでの相伝の系譜で,50余名におよぶ人名が記されている。中には「従三位源博雅」「太政大臣藤原師長」など朝廷に重きをなした公卿のほか,「賢円」「院禅」など僧侶や「尾張尼」「息女」などの女性もみえる。のちに琵琶の相伝には西流(にしりゅう)・桂流(かつらりゅう)の二つの流派が発生し,西流は鎌倉時代の公卿西園寺公経(さいおんじきんつね,1171-1244)までが本系図に記載される。公経は,朝廷の要職にあって鎌倉幕府とも緊密な関係を築いた公卿で,琵琶や和歌にも優れた功績をのこした。一方の桂流は僧春円まで記載され,その箇所に「系図に入れおわんぬ。正応四年(1291)十月五日清空(花押)」と書き込みがあり,本系図のおおよその成立年代が判明する。
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寛喜元年(1229),楽人の多久行(おおのひさゆき,1179-1261)が著した番舞(つがいまい)の目録,すなわちプログラムの例である。番舞(舞番とも)とは,唐楽の舞(左方舞)と高麗楽の舞(右方舞)とを一曲ずつ組み合わせたもので,本文の上段が左方舞・下段が右方舞にあたる。その組み合わせはほぼ決まっていて,舞楽においてはこの内の数番が奏される。各曲にまつわる多氏所伝の秘説なども併記されており,跋文によれば,後堀河天皇(1212-34)の「勅問」により注進したという。久行が天皇に奉呈した原本そのものである可能性が高い。宮廷儀礼において実質的に奏楽を務めたのは多氏や狛氏のような楽人で,時に彼らは皇族や貴族の師範ともなった。
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唐楽を相伝した南都興福寺の楽人狛氏の当主狛近真(こまのちかざね,1177-1242)が後代のために著した10巻から成る楽書。舞楽曲に関する故実口伝,器楽の奏法心得など,歌舞奏楽にかかわる一切を総合的にまとめたもの。狛氏相伝の教えにとどまらず他家に伝わる楽曲等についての言及も多い。天福元年(1233)の成立で,本書はその室町時代はじめ頃の写本である。近真は当代きっての名人とされたが,子息が跡を継がず,技術の途絶を憂いて本書が著されるに至った。本文中にも「(息子たちが)道を継承しないのは宝の山に入って手ぶらで出てくるようなものだ」とみえ,近真の口惜しさが伝わってくる。
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催馬楽(さいばら)とは歌謡の一種。建治2年(1276)8月1日,当時12歳の熙仁親王(1265-1317,後の伏見天皇)が催馬楽の秘曲「安名尊」(あなとう)を権大納言四条隆顕から伝授された時の様子を,親王の御父後深草上皇がみずから記録されたものとみられる。いわば俗曲である催馬楽を皇族が習うことは稀であるとしながらも,かつて延喜の聖代に醍醐天皇(885-930)が歌謡を学ばれた例や,院政時代,鳥羽(1103-56)・後白河(1127-92)両院も好まれたことなどを挙げ,その佳例に連なるものとする。
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鎌倉時代の第92代伏見天皇(1265-1317)宸筆の御日記。天皇は後深草天皇(1243-1304)の第2皇子。政務や儀式を記す他,学問・文芸に優れたため,教養・趣味に関する記述も多い。屈指の能書家で,平安時代の優麗な書風に学ぶ伏見院流を開かれた。画像は永仁元年(1293)8月27日条で,伏見天皇が勅撰集『玉葉和歌集』の編纂を二条為世(ためよ)らにお命じになった際の記事である。
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本書は,鎌倉時代に官人小槻(おづき)氏が皇統やそれに関する先例等を度々勘進(調査・報告)した文書群で,10数点が一巻にまとめられているもの。画像は,弘安4年(1281)に勘進された神武天皇以来の天皇の系図(末尾)。後宇多天皇(1267-1324,91代)から花園天皇(1297-1348,95代)までの5代が「当今」(=今上)と記されており,両統迭立(持明院統・大覚寺統両皇統の交互の即位)期に書き継がれていたことがわかる。また,現代の代数の数え方(明治期に確定)とは異なる点も見られる。
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本書は,中国唐の時代に太宗(598-649)の命により魏徴(ぎちょう,580-643)が編纂した政治の要諦の書。唐・貞観6年(631)に成立し,全50巻。当時存在していた様々な図書より政治の参考とすべき事項を抜粋して編纂された。しかし本書は中国では既に宋の時代(日本の平安時代頃)には失われてしまっていたという。この本は,鎌倉幕府の執権であった北条氏一族金沢(かねさわ)氏の図書館であった金沢文庫に所蔵されていた鎌倉時代(13世紀)の写本。全50巻のうち3巻が欠けてはいるが,この本によって中国本土にも伝わらなかった『群書治要』の内容を知ることができる貴重なもの。
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本書は,西晋の杜預(とよ,222-84)が孔子(BC552-479)の編纂と伝えられる歴史書『春秋』とその注釈書である『左氏伝』とをあわせ,更に注釈を加えて編纂したもの。全30巻。角書(つのがき,書名の上の小書の部分)の「杜氏」は杜預のことを指す。『左氏伝』は,様々な故事成語にちなんだ話を掲載している。この本は,鎌倉時代(13世紀)に幕府の執権であった北条氏が書写させたもので,もと金沢文庫に伝えられた。
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正和5年(1316)6月作成。和泉国日根荘(ひねのしょう,日根野荘とも,現在の大阪府泉佐野市)は,摂関家である九条家の荘園であった。その荘園開発を一任された久米田寺(くめだでら)が基礎資料として作成した絵図。裏書によって年次が判明する。縦86.2cm,横58.4cm。その景観は現在に残され,日根荘遺蹟の一部は平成10年(1998)荘園遺跡として国史跡に指定された。関西国際空港はこの図の下方,西の方向に位置する。
なお,これを収めた九条家文書とは,九条家に伝来した文書群で,代々の譲状や所領など,家の経済や存続に関連する資料などを集めたもの。『図書寮叢刊』(全7冊,昭和46-52年)にて刊行。全326点。
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寛元元年(1243),肥前国松浦(まつら)から宋に渡ろうとした一行が琉球国へ流され,そこから改めて宋へ渡って帰国するまでの見聞記。本史料は僧侶の慶政(けいせい)が,漂流者から直接様子を聞き取ったもので,漂流の様子と琉球国にかかわる記事に特徴がある。絵画の部分は,漂流者を宋へ送り届ける琉球国の人々の様子を描いている。
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本書は,伏見天皇(第92代,御在位1287-98)の宸筆や関連文書をまとめたもので,2通目が伏見天皇の宸筆。また3通目は,病が重くなられ,御自身で筆を執ることができなかったために関白二条道平(にじょうみちひら)が代筆し,それに伏見天皇が御本人の証として御手印(おていん,手形)を押されたものである。現在の遺言状にあたるもので,伏見天皇はこの文書を作成された翌月に崩御された。
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本書は,元亨4年(1324)に,後伏見天皇(第93代,御在位1298-1301)が皇子量仁親王(ときひと,後の光厳天皇)の立太子を祈願してお書きになった,神仏に捧げるための文書。この当時,後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統が互いに皇位を競っており,後伏見天皇が持明院統の繁栄を願って寺社に捧げた願文類は,この他にも現存している。
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本書は花園天皇(第95代,御在位1308-18)宸筆の御日記で,この巻には元弘元年(1331)10月1日から15日までの記事が残されている。この年の8月,後醍醐天皇(第96代,御在位1318-39)は鎌倉幕府討幕の行動を起こすが,本書には後醍醐天皇が幕府方に捕らえられたことや,その時の様子が記されており,南北朝時代の史料として価値が高いものである。
(図書寮文庫)
本書は,光厳天皇(北朝初代,御在位1331-33)の宸筆や関連文書をまとめたもので,1通目と3通目が光厳天皇の宸筆。1通目は元徳3年(1331)に御自身の即位を願って伊勢神宮に奉じた文書の,3通目は所領と皇位継承について書かれた文書の,それぞれ控え。