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(選択を解除)(図書寮文庫)
唐楽を相伝した南都興福寺の楽人狛氏の当主狛近真(こまのちかざね,1177-1242)が後代のために著した10巻から成る楽書。舞楽曲に関する故実口伝,器楽の奏法心得など,歌舞奏楽にかかわる一切を総合的にまとめたもの。狛氏相伝の教えにとどまらず他家に伝わる楽曲等についての言及も多い。天福元年(1233)の成立で,本書はその室町時代はじめ頃の写本である。近真は当代きっての名人とされたが,子息が跡を継がず,技術の途絶を憂いて本書が著されるに至った。本文中にも「(息子たちが)道を継承しないのは宝の山に入って手ぶらで出てくるようなものだ」とみえ,近真の口惜しさが伝わってくる。
(図書寮文庫)
催馬楽(さいばら)とは歌謡の一種。建治2年(1276)8月1日,当時12歳の熙仁親王(1265-1317,後の伏見天皇)が催馬楽の秘曲「安名尊」(あなとう)を権大納言四条隆顕から伝授された時の様子を,親王の御父後深草上皇がみずから記録されたものとみられる。いわば俗曲である催馬楽を皇族が習うことは稀であるとしながらも,かつて延喜の聖代に醍醐天皇(885-930)が歌謡を学ばれた例や,院政時代,鳥羽(1103-56)・後白河(1127-92)両院も好まれたことなどを挙げ,その佳例に連なるものとする。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の第92代伏見天皇(1265-1317)宸筆の御日記。天皇は後深草天皇(1243-1304)の第2皇子。政務や儀式を記す他,学問・文芸に優れたため,教養・趣味に関する記述も多い。屈指の能書家で,平安時代の優麗な書風に学ぶ伏見院流を開かれた。画像は永仁元年(1293)8月27日条で,伏見天皇が勅撰集『玉葉和歌集』の編纂を二条為世(ためよ)らにお命じになった際の記事である。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉時代に官人小槻(おづき)氏が皇統やそれに関する先例等を度々勘進(調査・報告)した文書群で,10数点が一巻にまとめられているもの。画像は,弘安4年(1281)に勘進された神武天皇以来の天皇の系図(末尾)。後宇多天皇(1267-1324,91代)から花園天皇(1297-1348,95代)までの5代が「当今」(=今上)と記されており,両統迭立(持明院統・大覚寺統両皇統の交互の即位)期に書き継がれていたことがわかる。また,現代の代数の数え方(明治期に確定)とは異なる点も見られる。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に太宗(598-649)の命により魏徴(ぎちょう,580-643)が編纂した政治の要諦の書。唐・貞観6年(631)に成立し,全50巻。当時存在していた様々な図書より政治の参考とすべき事項を抜粋して編纂された。しかし本書は中国では既に宋の時代(日本の平安時代頃)には失われてしまっていたという。この本は,鎌倉幕府の執権であった北条氏一族金沢(かねさわ)氏の図書館であった金沢文庫に所蔵されていた鎌倉時代(13世紀)の写本。全50巻のうち3巻が欠けてはいるが,この本によって中国本土にも伝わらなかった『群書治要』の内容を知ることができる貴重なもの。
(図書寮文庫)
本書は,西晋の杜預(とよ,222-84)が孔子(BC552-479)の編纂と伝えられる歴史書『春秋』とその注釈書である『左氏伝』とをあわせ,更に注釈を加えて編纂したもの。全30巻。角書(つのがき,書名の上の小書の部分)の「杜氏」は杜預のことを指す。『左氏伝』は,様々な故事成語にちなんだ話を掲載している。この本は,鎌倉時代(13世紀)に幕府の執権であった北条氏が書写させたもので,もと金沢文庫に伝えられた。
(図書寮文庫)
正和5年(1316)6月作成。和泉国日根荘(ひねのしょう,日根野荘とも,現在の大阪府泉佐野市)は,摂関家である九条家の荘園であった。その荘園開発を一任された久米田寺(くめだでら)が基礎資料として作成した絵図。裏書によって年次が判明する。縦86.2cm,横58.4cm。その景観は現在に残され,日根荘遺蹟の一部は平成10年(1998)荘園遺跡として国史跡に指定された。関西国際空港はこの図の下方,西の方向に位置する。
なお,これを収めた九条家文書とは,九条家に伝来した文書群で,代々の譲状や所領など,家の経済や存続に関連する資料などを集めたもの。『図書寮叢刊』(全7冊,昭和46-52年)にて刊行。全326点。
(図書寮文庫)
寛元元年(1243),肥前国松浦(まつら)から宋に渡ろうとした一行が琉球国へ流され,そこから改めて宋へ渡って帰国するまでの見聞記。本史料は僧侶の慶政(けいせい)が,漂流者から直接様子を聞き取ったもので,漂流の様子と琉球国にかかわる記事に特徴がある。絵画の部分は,漂流者を宋へ送り届ける琉球国の人々の様子を描いている。
(図書寮文庫)
本書は,伏見天皇(第92代,御在位1287-98)の宸筆や関連文書をまとめたもので,2通目が伏見天皇の宸筆。また3通目は,病が重くなられ,御自身で筆を執ることができなかったために関白二条道平(にじょうみちひら)が代筆し,それに伏見天皇が御本人の証として御手印(おていん,手形)を押されたものである。現在の遺言状にあたるもので,伏見天皇はこの文書を作成された翌月に崩御された。
(図書寮文庫)
本書は,元亨4年(1324)に,後伏見天皇(第93代,御在位1298-1301)が皇子量仁親王(ときひと,後の光厳天皇)の立太子を祈願してお書きになった,神仏に捧げるための文書。この当時,後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統が互いに皇位を競っており,後伏見天皇が持明院統の繁栄を願って寺社に捧げた願文類は,この他にも現存している。
(図書寮文庫)
本書は花園天皇(第95代,御在位1308-18)宸筆の御日記で,この巻には元弘元年(1331)10月1日から15日までの記事が残されている。この年の8月,後醍醐天皇(第96代,御在位1318-39)は鎌倉幕府討幕の行動を起こすが,本書には後醍醐天皇が幕府方に捕らえられたことや,その時の様子が記されており,南北朝時代の史料として価値が高いものである。
(図書寮文庫)
本書は,光厳天皇(北朝初代,御在位1331-33)の宸筆や関連文書をまとめたもので,1通目と3通目が光厳天皇の宸筆。1通目は元徳3年(1331)に御自身の即位を願って伊勢神宮に奉じた文書の,3通目は所領と皇位継承について書かれた文書の,それぞれ控え。
(図書寮文庫)
日本でもっともよく知られた詞華集(アンソロジー)。藤原定家撰。書かれた年次(文安2年〈1445〉)のわかる最古の百人一首の写本。画像冒頭は小野小町の「はなの色はうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」。
(図書寮文庫)
『白氏文集』(はくしぶんしゅう)は,中国唐代中期の詩人・白居易(はく・きょい,772-846,字は楽天)の詩文集。はじめ親友の元稹(げん・じん,779-831)により編まれ,その後居易自身が生涯にわたって加筆したもの。『文集』は早くも居易の生前よりもてはやされ,日本にも存命中に渡来した。日本の漢文学はもちろん,『源氏物語』など国文学へも強く影響したことが知られる。
さて,本資料は,九条家旧蔵の残巻類の包みより出現した,鎌倉初期の書写と思われる『文集』巻16の残簡1葉。大ぶりの料紙に墨で界線(枠)を引き,毎行15字で書かれ,欠損はあるが24行残存している。内容は巻頭の「東南行(東南のうた)」という詩の一部である。居易が左遷された都・長安より東南の江州の景や,長安での思い出を詠んだ作品。文中の小字は居易自身による注釈(自注)を写したもの。本資料はたった1枚にすぎないが,唐代に写本で流布した『文集』の本文が我が国において保存された,いわゆる「旧鈔本」(ふるい手書き本)のひとつの姿を伝える点に意義がある。
なお,『管見記』(F11・1)巻102の紙背にも,鎌倉時代の書写で,同じく『文集』巻16の別の部分(巻末)が遺る。